接ぎ木の子育て。

これは、うちの2階のベランダから撮った写真です。



kaki



うちの庭には、柿の木が生えています。


毎年、この光景を見ると、感慨深い思いになります。


一つは、この時期の、この葉の色。この美しさ。


ほんっとうに綺麗だな・・・と、しみじみと感じます。


神様がこの色を作っているんだなあ・・


神様って凄い芸術家だよなあ・・と


毎年、新緑の季節になると、いつも思います。


二つ目には、この柿の木は、


末っ子がまだ1歳とか、そのくらいのとても小さい時に、


たまたま頂いて食べた柿がとても美味しくて、


芽が出てきたらいいなあ~と思って、庭に種を撒いたものなんです。


だから、ほぼ末っ子と同じ年くらい。


ああ、こんなに大きくなったんだなあ、って。


我が子を見ても思いますが、柿の木を見ると、


二重にそう思うのです。



そして、感慨深いのとは少し違いますが、


近年、この柿を見て思うのは、


「実がならないな~」ということ(笑)。



こういうことに詳しい方に、たまたま会う機会があったので、


このことを訊いてみたところ、


「最近の柿は、品種改良とかいろいろされてるから、


そのまんまじゃ、実はならないよ。


よくなる、美味しい柿の木の枝をもらってきて、


今の木を切って、そこについでやらなくちゃ。」


と教えていただきました。


でも、なかなか美味しい柿の木の、


そんな枝をもらえる機会にも恵まれず、


数年が経っているのですが・・(笑)。


まあ、そのことはさておき。



さておき、というか、そのことを、


ふっと、子育てに当てはめてみたんですよ。


子育ても、同じじゃないかなって。



親が(特にお母さんのことが多いですが)、どんなに一生懸命


こどもをいい子に育てようとしても、完璧には育ちません。


それは、どだい、無理なんです。


だって、人間は社会的動物だから。


社会の中で生きていける子を育てるのが、親の役割だと思いますが、


社会の方が、圧倒的に広いんですもの。


その中で生きていける子を、社会より、よっぽど小さな


一人の人間が、完璧に育てられるはずがありません。



だから、接ぎ木の子育てなんですよね。


自分では育て切れなかったところを、友達に、学校の先生に、


バイト先や就職先の人に、恋人に、配偶者に、いろんな人達に


足してもらって、人間は一人前に育っていくのだと思います。



そこにはいろんな人たちがいます。


親の気にくわないタイプの人もいるかもしれません。


いい人なんだけど、クセがあるとか、毒があるとか、えぐみがあるとか、


まあ、いろいろあるでしょう。


でも、それが人間の社会だから、いろんなものに、


いろんな人に触れていくので、いいんだと思います。


その中から、もしかしたら反面教師にする様なこともあるかもしれませんけど。


でも、そのいろいろな人、いろいろなことの中から、


自分なりに、よいこと、わるいこと。素敵なこと、醜いこと。


そういうことを仕分けていける感性を育てておいてあげることが、


親の仕事なんじゃないかと思います。




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