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子育てをしていると、子どもの行動を見ていて、このまま行ったら絶対失敗するな~、とわかる時があります。


うちで時々あるのは、上履き洗い。


金曜日に声をかけて洗わない。 土曜日に、「日曜は天気よくないみたいだから、今日洗っちゃえば?」と、声をかけても洗わず。

曇り時々雨、みたいな日曜日の、昼頃に洗ったりして。

まぁ…カラッとは乾きませんよね。 で、若干湿ってて気持ち悪さのある上履きを履くことになる。


で、どうよ?って話なんですね。

いいのかい、本人!?

次回もこれでいいのかい?

ってことなんですね。


失敗して、自分で考えて、次回どうしよう、これが大事な経験なんだと思います。


だから、親が洗ってしまったり、

無理に洗わせるのは、

本人にとって学びが少ないのではと思います。


なんなら、本人が洗いたくないなら、しばらく放っておくのも手だと思います。


たとえば、先々週も、先週も洗ってない、今週も洗わないと言っている。

さぁ、どうしましょう?


友達に「きったねえ~」と言われるかもしれません。

その前に、自分で気がついて、

ヤバいわ〜、と思うかもしれません。


良くない展開パターンとしては、

それでイジメられる、

イジられるとか、

本人が傷ついちゃう、

なんてこともあるかもしれません。


他のパターンだと、

これが、夏休みの宿題なんかの場合も、

悩みますよね。


いつやるのか、

無理にでもやらせた方がいいのか、

本人に任せていいのか、

やらないという選択はありなのか、

やらないままちゃんと開き直って学校に行けるのか、

学校行くのが嫌だ、とか言い出さないか。


コケるまで見る、と言っても、

どこまで見てて大丈夫だろう?という、実際問題もあります。

やはり、命に関わるようなことや、

大ケガをするようなこと、

これは避けるべきでしょう。


現実問題になると、

私も、迷うことは多々ありますが、

基本的な大枠としては、

「命に関わること」

「取り返しのつかないこと」

でなければ、

どんどんいろんな経験をして、

たくさんコケてみたらいいと思っています。


心身共に、すり傷や切り傷、

あざなども作り、

その痛みを知ることで、

人の痛みもわかるようになるでしょう。


何度もコケるうちに、

コケ方もうまくなり、

キズを負わないコケ方が

できるようになるでしょう。

つまり、受け身が上手くできるようになるということですね。


自立するということは、

親掛りでなく、

いろんなことを自分で決めたり、

それが失敗しても立ち直ったり、

人に助けを求めたり、といったことが

できるようになることだと思います。


だから、親がいるうちに、

親の見ていられるうちに、

それをさせてあげることが大事なのではと思います。


それを、親が何でも決めてしまい、

失敗はさせないようにし、

助けを求める前に手を差し伸べてしまったら、

子どもは自立できないまま、

大人になるしかないと思います。


コケたことのない大人が

(挫折を味わったことのない大人が)、

40代とか50代になって、

いきなりそんなことにさらされたら…と思うと…

…非常に心配ですよね。


心がポキッと折れちゃうのではないでしょうか。


何度も何度もコケては、

立ち上がって来た子は強いです。


なんぼコケても、

また立ち上がればいい、

立ち上がることができると、

身にしみて知っているからです。


ついつい、先に先に、

失敗しないようにと、

手を差し伸べてしまう親御さんって

多い気がするんですが、

その子のことをよく観察して、

この辺が限度、というのを見極めて、

放っておけばいいのではないでしょうか。

横目で見つつ。

あ〜、コケるやつだ〜、と思いつつ(笑)。

あー、やっぱりコケたわ〜、

と観察しつつ(笑)。


ある意味楽ですが、

心にはちょっと力がいります。


でも、自分でやってみて、なかなかおすすめの方法です。

子どもに、自分で考えて、

どうにかする力が身についてきます。


金魚鉢の子育て

2024年05月08日



kinngyo



カエルの子はカエルと言いますが、トンビが鷹を生む、ということわざもあります。

たまに、金魚がクジラを産むようなことが、世の中にはあります。

これはなかなか苦しい事態を引き起こします。

能力というよりは、魂のスケール感とでもいいましょうか、それが、親よりも相当大きな子が産まれる場合があります。


たとえば、親は、箸の持ち方が違うとか、教科書が逆さまに本棚に入っているとか、そんなことばかり気にするタイプで、子供は、どうしたら世界は戦争がなくなるのか、なぜ人間は過ちを繰り返すのか、そんなことばかりを考えている、というパターンです。



子どもの方が魂が純粋ですし、大人は生活することに忙しいですから、どうしても、そういう傾向はありますが、その状態がずっと続いていくような場合、これはなかなか子どもにとっては辛いのではないかと思います。



たとえて言えば、金魚鉢の中で、クジラを育てているようなことになります。


「おかあさん、ぼく、もっとしょっぱい水がいいな」と言われても、意味がわかりません。

「頭がムズムズするから、潮を吹いてみたいんだ」といっても、「馬鹿なこと言ってないで、ふわふわキレイに泳ぐ練習をしなさい、そもそもどうしてあなたは赤くないの」と叱られる。


「ぼく、海に行ってみたい」なんて言おうものなら、「あんたはどこまでバカなの!あんな危険なところ!ここなら安全に餌をもらって過ごせるのよ」と、全く取り合ってもらえない。

そんなクジラは、金魚にもなれず、金魚鉢でノイローゼになるか、もしくは家出するしかないと思います。


この場合の解決法は大まかに2つあって、ひとつは親の方が、クジラの心に近づくこと、金魚からクジラの心に、自分の心を育てていくこと。

もうひとつは、それが無理な場合は、金魚鉢という、自分の狭い価値観から解き放って、社会という大海に、放りだしてしまうことです。


そこでは、いろんな危険もあるかもしれませんが、様々な経験や冒険をしながら、クジラの仲間に会える可能性がぐっと高くなります。


100%クジラに会えるとは言い切れませんが、少なくとも、金魚鉢の中で一生を終えるよりは、遥かにクジラの魂は救われるでしょう。



kujira




接ぎ木の子育て。

2024年04月27日

これは、うちの2階のベランダから撮った写真です。



kaki



うちの庭には、柿の木が生えています。


毎年、この光景を見ると、感慨深い思いになります。


一つは、この時期の、この葉の色。この美しさ。


ほんっとうに綺麗だな・・・と、しみじみと感じます。


神様がこの色を作っているんだなあ・・


神様って凄い芸術家だよなあ・・と


毎年、新緑の季節になると、いつも思います。


二つ目には、この柿の木は、


末っ子がまだ1歳とか、そのくらいのとても小さい時に、


たまたま頂いて食べた柿がとても美味しくて、


芽が出てきたらいいなあ~と思って、庭に種を撒いたものなんです。


だから、ほぼ末っ子と同じ年くらい。


ああ、こんなに大きくなったんだなあ、って。


我が子を見ても思いますが、柿の木を見ると、


二重にそう思うのです。



そして、感慨深いのとは少し違いますが、


近年、この柿を見て思うのは、


「実がならないな~」ということ(笑)。



こういうことに詳しい方に、たまたま会う機会があったので、


このことを訊いてみたところ、


「最近の柿は、品種改良とかいろいろされてるから、


そのまんまじゃ、実はならないよ。


よくなる、美味しい柿の木の枝をもらってきて、


今の木を切って、そこについでやらなくちゃ。」


と教えていただきました。


でも、なかなか美味しい柿の木の、


そんな枝をもらえる機会にも恵まれず、


数年が経っているのですが・・(笑)。


まあ、そのことはさておき。



さておき、というか、そのことを、


ふっと、子育てに当てはめてみたんですよ。


子育ても、同じじゃないかなって。



親が(特にお母さんのことが多いですが)、どんなに一生懸命


こどもをいい子に育てようとしても、完璧には育ちません。


それは、どだい、無理なんです。


だって、人間は社会的動物だから。


社会の中で生きていける子を育てるのが、親の役割だと思いますが、


社会の方が、圧倒的に広いんですもの。


その中で生きていける子を、社会より、よっぽど小さな


一人の人間が、完璧に育てられるはずがありません。



だから、接ぎ木の子育てなんですよね。


自分では育て切れなかったところを、友達に、学校の先生に、


バイト先や就職先の人に、恋人に、配偶者に、いろんな人達に


足してもらって、人間は一人前に育っていくのだと思います。



そこにはいろんな人たちがいます。


親の気にくわないタイプの人もいるかもしれません。


いい人なんだけど、クセがあるとか、毒があるとか、えぐみがあるとか、


まあ、いろいろあるでしょう。


でも、それが人間の社会だから、いろんなものに、


いろんな人に触れていくので、いいんだと思います。


その中から、もしかしたら反面教師にする様なこともあるかもしれませんけど。


でも、そのいろいろな人、いろいろなことの中から、


自分なりに、よいこと、わるいこと。素敵なこと、醜いこと。


そういうことを仕分けていける感性を育てておいてあげることが、


親の仕事なんじゃないかと思います。




このところいくつか、五味太郎さんの本から引用させていただいていますが、


その締めとして、「偏差値について」という文章を引用させて頂きます。


その後に、自分の経験や思いなどを書かせていただきます。




偏差値をどうとらえるか

偏差値とは、あるテストを受けた全生徒の中で、
個々の生徒の得点が、全体の中でどのような位置にあるのかを、
標準偏差を導入して表現したものであるんだそうです。

(偏差値の算出方法について具体的に説明してありますが、長いので中略)

こんなわけのわからない評価法を、
わけのわからないまま大手を振って歩きまわらせている、
その責任は教育をしていく側、つまり大人のほうにあるのは明らかですが、
ここではあえて生徒の側の責任を問いたいと思います。
学校を選んで受験する場合の考え方を問いたいのです。

「なんでもいいからどこかの学校に入りたい」
「学校に入りさえすればいいのだ」
「自分は行きたくないけど親が言うから・・・」
「受験に失敗したらはずかしい・・・」
そんな態度の受験そのものを問いたいと思います。

そのなさけない態度の受験生を
なんとかめんどうみましょうとの親心でできたのが、
とりもなおさず偏差値というものなのです。

なんでもいいからどこかに入れるような、
それもなるべく失敗しないような学校選び。
そのための目安。
それが偏差値というものでしょう。
偏差値が問題なのではない。
偏差値なんてものたよりにしている生徒が問題なのです。

自分が行きたいと思った学校に応募者が多ければ入りにくいのはあたりまえ、
失敗なんて話ではないはずです。
あるいはどう考えても理解できないような問題を出す学校は、
こちらから願い下げ、
よもや試験問題は軽くできたところで、
センスがあわなければやっぱりキャンセル。
あるいは、そもそも学力だけで判断するような学校は選ばない。
教師の態度が悪い学校はやめる
。無意味な努力をしなくてはいけなさそうなところは遠慮する。
そんなはっきりした学校選びの態度を持つべきだと思います。

さらに言えば、自分が本当に入りたいと思う学校はどこか、
自分はそこに入って何をしたいのか、
あるいは自分は本当に学校に入りたいのか、
学習、学問を続けたいのか、
その学校が持っている部、クラブなどでしたいということがあるのか、
などなど、もっと積極的に考えてみるべきだと思います。

そして積極的に考えた結果、学校へは行かない、学校は必要ない、
という答えが出ることだって十分ありえると思います。

行きたくなったら、必要を感じたら、そのとき学校へ行くということもありえます。

それがあたりまえになれば、偏差値なんて自然消滅します。
必要ありませんもの。

学校に行っていないとはずかしいから、とか、
いい学校に入れば出世できることになっているから、とか考えて、
それをまた偏差値なんてものをたよりにして右往左往している人がいるとしたら、
その人の「考え方の偏差値」はそうとう低いと言わなくてはなりますまい。




これね、本当に心からそう思いました。



私は、いわゆる偏差値の受験をしました。


それが、自分的には、とても失敗だったと思っています。


そして、子どもが、長男が今、20歳ですけど、


その子が高校受験をする時に、やっぱり偏差値ってものが出てきて、


「まだこの国の教育って、偏差値受験とかやってるんだ!」とびっくりしました。


その理由は、五味さんが上記にとてもうまくまとめてくれています。



私は、中学の時までは(笑)、勉強はトップクラスでした。


なんでかわからないんですけど、やればできました。


で、中3で受験ということになり、


しかし、こういう「どうしてぼうや」な性格は昔からなので、


「そもそも自分は勉強を続けたいのだろうか」から始まるわけです(笑)。


で、でも、一応、高校には行っておいたほうがいいらしい、となって。


で、次は学校選択なわけです。


私、何がやりたいんだろう。


あ、高校では演劇がやりたいな!


演劇部の強いところにいきたい!


将来、何か役に立つものを学びたいな。


商業科とかどうかな?


女子ばかりとかいやだから、共学が良いな。


満員電車とか嫌だから、下り電車がいいな。


セーラー服とか可愛いからいいなあ。


そんな感じで、いくつか候補が上がってきて、


いくつか見学に行きました。


下り電車で通える、セーラー服のM女子高。


共学で演劇部の強いS高校。


商業科のある、めっちゃ近いH高校。


偏差値的にいったら、自分の偏差値よりも、


M女子高は5くらい、S高校は15くらい


H高校は20以上、下でした。


自分的にはそんなことはあまり関係なかったのですが、


先生と親が、強く、私の偏差値に見合ったK女子高を推してきました。


K女子高は、進学率が高いということについては、


一応その時には大学に行きたい思いはあったので、


合致はしていたのですが、


そのほか、上に書いた自分の希望を満たしてくれる要件は、


ほぼない学校でした。


で、結局、自分は、周囲の声におされて、


偏差値で横に輪切りにされた選択として、


K女子高校に決めてしまいました。


K女子高は、合っている人もいるとは思うのですが、


悪いところだとも思いませんが、


私には合わなくて、今でもその選択を後悔するくらいです。


そしてそのK女子高で、私は、中学校まで続けていたバレー部に入りました。


そこの練習がまた厳しくて、体を壊し、人間関係も最悪で、


本当に生き地獄のような高校生活でしたが、


それでも不思議なことに、


私はK女子高を選んだことは後悔してるのですが、


バレー部を選んだことについては後悔していないのです。


そこは、「自分で選んだことだから」という思いがあるからです。


私にとって、「自分で選んだことだ」ということは、


こんなにも大きなことなんだと、


そのことを学んだ出来事でした。



それから、「自分で考えて、自分で決める」ということを


とても大事にして生きてきたように思います。


そして、子育ての中でも、それは繰り返し、子どもに伝えてきたことです。


そして今、このアストロラーベで掲げていること、


「自分軸」ということに、つながっています。



あの時に、自分が悩んで、そして間違ってしまった進路選択。


(間違ったからこそ、その後悔をバネに、今の自分があるのですが)



あの時に、自分が進路のことで悩んだこと、考えたこと、


選ぼうとしていたもの、それは間違っていなかったのだと、


長い長い時間を経て、この文章に出会い、


はっきりとわかりました。



もしできれば、私みたいに後悔をしない進路選択を、


今の学生さんたちにしてもらえたらいいなと願います。



hennsachi




今までさんざん書いてきました、


「勉強ってなんのためにするのか」シリーズですが、


このたび、昨日、記事にした、


五味太郎さんの「じょうぶな頭とかしこい体になるために」という本の中に、


今まで私の中になかった考え方があったので、


ぜひ、ご紹介したいと思いました。



一部、引用させていただきます。



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「ぼく 算数がきらいだ!」(7頁)より


学校での学習というものは、生活してゆくうえで必要だと思われることを、


前もって学んでおくということもありますが、それ以上に、


その人個人がどんな性質の人なのかを、自分自身で発見してゆくためのものです。


自分がどういう性質の人間なのかを、いろいろな学習をとおして見出してゆく、


そのために学校には多くの種類のカリキュラムが用意されています。


ですから、すべての学科において平均的に優秀である、というような人がいたら、


これはちょっと問題で、別な言い方をすれば、はっきりとした性質がない、


あるいは発見できていない、ということになります。



なるほど、なるほど~って、とっても自分としては腑に落ちました。


高校生の時、私の通知表には2~9まで全ての数字があって、


でも、ちょっとそれが気に入っていたんです。


すべてが4~6とかより、おもしろいよね、って。


あの感覚は、合っていたんだなと思いました。



そして、完全に文系型で、数学では0点をとっていた私が、


今、数学はきらいですが、かなり論理的な思考をすると言われたりします。


どこかが数学的な思考回路なんでしょうね。


人間って、必要に応じて、大人になっても、いろいろな部分が伸びていくものです。


面白いなって思います。


私の小さな夢。

2024年04月22日

絵本作家の五味太郎さんってご存知でしょうか。


私が五味太郎さんを知ったのは、私が幼稚園時代だったと思います。


タイトルが思い出せないのですが、


鷲(コンドル?)が、肉を岩の陰にかくしたまではいいものの、


その場所を勘違いしてしまい、


「誰が取ったんだ!?」と、


いろいろな動物をうたがう話だったように覚えています。


結局最後に、自分の勘違いだったと、気づくのですが^^;


その時からの、五味太郎さんのファンです。


独特のシンプルな画風と、ちょっと毒の効いた感じ、というか


本質に迫る感じが大好きです。



子ども達が小さい時にも、よく五味太郎さんの本は借りてきてました。


たぶん、何十冊って読んだんじゃないかなあ。


子ども達も、たぶん好きだと思います。


よく、うちの子供の友達などには


「五味太郎を知らずに、子ども時代を終わっちゃいかん!」


などと言っています。



そんな五味太郎さんの本を、久しぶりに図書館で借りました。


「じょうぶな頭とかしこい体になるために」というタイトルです。


絵本というには字が多く、本というには絵が大きい、


片面が絵、片面が字、みたいな本です。



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まあ、こんな感じの本です。


子どもの疑問や悩みや、希望に、五味太郎さんが真正面から答えていく本です。


で、いろいろと良かったんですが、あとがきが特に良かったので、


ご紹介します。




あとがき


とくに悪いことをしたわけでもないのにしかられる。


ちょっとおもしろそうなことをやろうとすると、とめられる。


それなりに自分ではやっているつもりなのに、がんばりなさいとか、


しっかりしなさいなどと言われる。


そして、本当に悩んでいることについては、相談にのってくれる人が見あたらない。


まったく子どもって気の毒です。ぼくも昔、だいぶ気の毒でした。


そして今、ぼくは大人をやっているわけですが、まわりの大人を見るにつけ、


ぼくたち大人が作り出している世の中を見るにつけ、


やっぱり子どもはあいかわらず、気の毒なんだろうなと思います。


そして、また、子どもを気の毒にさせておいてでも、


大人のほうはとりあえず幸せだというのなら話は、ま、わかりますが、


当の大人たちもそう幸せそうではありません。


やっぱり気の毒なのです。どうしてなんでしょうか。


これじゃ、子どもが気の毒をやっているかいがありません。


そして大人自身が気の毒な状態だから、子どもをしかったり、文句を言ったり、


指導にまわったり、むやみにはげましたり、勝手に愛しているふりをして、


なんとかごまかしているようにぼくには思えます。


なんで大人がそこまで気の毒な状態におちいってしまったのか、


理由はよくわかりませんが、その大人の気の毒が子どもの気の毒を生み出し、


子どもの気の毒が大人をもっと気の毒にする、そんな感じ。


いつまでたっても終わりそうもありません。


自分でやるしかありません。


あたりまえすぎる言い方ですが、自分で自分の気の毒を解決してゆくしかないのです。


それは大人も子どもも同じです。


自分で考え、自分で悩み、自分でしかり、自分をはげまし、


そして自分を可愛がってゆくしかないのです。


そのために、けっこうきつい問題でもなんとかこなせる「じょうぶな頭」と、


好きは好き、嫌いは嫌いとはっきりわかる「かしこい体」が必要なんだろうと思います。


気の毒な大人があみ出した、


かしこい頭とじょうぶな体になるための方法をまじめにやっていても、


さらに気の毒になるしかないのです。


それではいつまでたっても不安なのです。


できるかぎり自分の頭と体を信じて、生活してゆくしかないと思います。


それも信じられないで、人のためにどうのこうの、世の中のためにどうのこうのなどと


言っている場合じゃないと思います。


大人もしっかりしますから、子どももしっかりしてください。



この本は、少し気の毒な状態ですが、その気の毒さに気づいている、じょうぶな頭と


かしこい体をもった子どもたちの声がベースになって作られました。


そしてかつては少し気の毒でしたが、今はけっこう幸せな大人たちが、


いろいろと調べたり、考えたりして協力してくれました。


お礼を申上げます。 1991年1月31日 五味太郎





1991年って、結構、前ですけど。


もう30年以上経ってますけど。


未だにこれは解決されないというか、酷くなっている感じさえします。



私の小さな夢の一つとして、


こういうような本質的なおしゃべりをする会を、


子ども達とやりたいなっていうのがあります。


そういうことが、自分の頭でしっかり考えられる人を育てることが、


世の中が変わっていく元になるんじゃないかって、思っています。



そんな会をやるとしたら、参加したい方、ぜひコメント下さい。


お待ちしています^^☆


先月、虐待について少し書きましたので、

我が家の、「虐待に見えるかもしれない」けど、そうじゃないんだよシリーズをもう少し。


やっぱり、次男くんであります。


自閉っぽいので、やることがへんてこりんだった次男は、

たとえば、走行中のベビーカーから、横に身を乗り出して、

その車輪が廻るのを見ようとしたり。


道ばたに、はいつくばって、目の前を通る、車の車輪が動いていくのを見ようとしたり。


あぶないよ~~~~!


みたいなことを、やらかす子でした。



そして、買い物に行くと、そこにも地雷が。


近くのスーパーに買い物に行くと、入ってすぐのところに、エスカレーターがあったんですね。それが、下りのエスカレーターで。


まあ要するに、「廻るもの」とか「流れるようなもの」が好きだったんだと思うのですが、その下りエスカレーターを眺めるのが、次男は好きだったんです。


・・ただ眺めているだけなら、まだいいんです。


その、眺めたいスタイルっていうのがあって。


それが、しゃがんで、下から見上げる。


やばいですよ。


いくら小さい子どもと言っても、女性のスカートの中、丸見えですし(笑)。

しかも、いちおう男の子ですし(苦笑)。


その時に、私のおなかの中には、長女がいました。


下手に次男を抱っこなどすると、蹴られたら命に関わるので、

次男の両足を持って、ずるずるずる~~~~っと引きずって、

買い物カートの「子どもシート」にはめてしまえば、おとなしくなるのでした。


ずるずるずる~~~~っと引きずっていくのは、距離にしたら5メートルくらいだったでしょうか。長く感じましたね。


知り合いに会いませんように、見られませんように!

と、祈ってました(笑)。


虐待じゃないです~、ぎゃくたいじゃないんですよ~

と、まわりに心の中で叫んでました(苦笑)。



あと、もう一つ、印象に残っているのは。


そんなわけで、その時期に次男を無理やり移動させなくてはいけない時には、

「だっこ」ができなかったんですね。

もちろん、パパがいる時にはやってもらいましたが、いる事のほうが少なく。

手を引っぱって動く時は良いけど、そうでない時に、抱っこもできない。

そうした時にどうしていたか。


逆さづりです(笑)。


ああ、虐待だと思われたらどうしよう!

読者の皆さん、ぎゃくたいではありません!(笑)

っていうか、もう十数年前のことだから、時効でお願いします!


っていうことで。


実際にどういう状態かと申しますと。


足首を持って、逆さにつるして、自分の方を向かせて。


これで、移動させる。短い距離ですけどね。


私が妊娠中で、おなかが大きかったこともあり、

嫌がる次男を、他の方法で移動させるのは、なかなかの危険を伴うものでした。



ってな感じでですね。


今、次男にその話をすると、「いやー、ぼく、激ヤバじゃん(笑)」

とか言って、ゲラゲラ笑ってますけど。

当時は、大変でしたね。

とはいえ、まあ、お互いに、まわりも、笑ってくれてましたけど。



子どもが障がいを持っている場合とか、

そうでなくても、ものすごく手のかかるお子さんの場合とか、

双子以上の場合とか、

親がなんらかの事情で体がままならない場合など、

そういうことって、たまに子育てのシーンの中であるかと思います。



そういう時に、「お互いの安全性の確保」のために、

はたから見たら「ぎゃくたいなのか?」とちょっと思われるような、

あまり一般的ではない対策を取らなくてはならないこともあるかと思います。


多少一般的になってはきたものの、時々見かける、

「幼児用リード(ハーネス)」なんかも、その一つでしょうね。


見た目から、「犬じゃあるまいし」なんて声も聞こえてきますけれども。


やっぱり、小さい頃のスキンシップとか大事ですから、

できればリードよりも、手をつないであげたほうがベターかなとは、私も思いますが。


でも、子どもさんの特性として、非常に動きが多くて衝動的で危ないとか、

保護者の体調があまりよくないとか、手をつないでいると腰が痛くなってくるとか、

道路状況がよくなくて危ないとか、人ごみで迷子になりそうとか、

それは、その時々に、「事情」がある場合があります。


だから、いつまでもその「事情」も続くわけではないのだから、

そして、もし、それでも胸が少し痛んでしまうのだったら、どこかで埋め合わせればいいのだから、

周りの人も、「事情」があるのかな~と思って、

少し温かい目で、こういうシーンを見かけたら、見守ってあげたら良いかと思います。


でも、これは「ぎゃくたい」じゃないの?というのは、

保護者の態度、子どもの様子などを見れば分かると思うので、

その辺は、様子を見て判断して頂ければと思います。



今はもう、たくさんの駅にエレベーターが付いて、どこへでもベビーカーで出かけるのに不自由は感じなくなりましたが、長男が赤ちゃんの時には、駅の構内の長い階段を、ベビーカーを担いで下りたりしていたものでした。


通りすがりの方が手伝ってくださったことも多々ありました。

嬉しかったですね。


少子化が叫ばれていますが、子育てしやすい世の中って、給付金があるとか、そういうことだけじゃないと思います。


通りすがりの人も含め、まわりの人たちのあったかい見守りのまなざしがあって、

親子共々に、のびのびと育ち、育てられるのだと思います。


こうやって記事を書くことや、占いという仕事を通して、

少しでもそんなことのお役に立てれば、嬉しいなと思っています。




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「卒業ディズニー」って、ありますよね。


高校生とかが、卒業の記念に、友達と一緒にいくアレ。


中学生って、どうなんでしょう?


小学生で、「卒業ディズニー」って、どう思います?



・・「ないわ~」と思われた方、すみません。


うちの子、小学校を昨日、卒業しまして、「卒業ディズニー」に行くんです。


自慢でも何でもありません。愚痴でもありません。


最後まで読んでいただくと、私のお伝えしたいことが伝わるかと思います。



タイトルにもしましたが、「卒業ディスニー」っていう「アレ」に、みんなそれぞれに、勝手なイメージをつけているんだと思うんですよね。


例えば、めっちゃキラキラしてて、お金かけて遊んでくるアレね、とか。

場合によっては、お金持ちの学生がいくアレね、とか。



正直にお伝えしますと、うちの経済状態は、決して良いほうではありません(笑)。

ああ、言ってしまった(笑)・・。


当然、そんな中で育った娘ですから、ある意味、親以上に金銭感覚はしっかりしています。多少まとまった金額であげられるのは、お年玉くらいで。あとは、すずめの涙のようなおこづかいしかあげていません。


そんな彼女が、今まで無駄遣いもあまりせず、貯めてきた自分のお小遣いで、「行きたいんだけど」と言ってきた。

だから、私は確認で「お昼代位しか出さないよ?それでもいいの?」って聞いたら、

「いい!わかってる、大丈夫。」って言う。


うちからは、電車で一時間くらいかな?

そんなに遠くはない場所です。


治安的には問題がない場所だと思います。

しっかり者の友達も付いてます。


・・そしたら、それを、もう止める理由って、ない気がするんですよね。


って、ここまで読んでいただいて、どうだったでしょうか。


最初の時に、人によっては感じられたかもしれない、


「小学生でアレ(卒業ディズニー)って、どうかねえ?」と思う感じ、


ちょっと変化がありませんでしたか?



これはひとつの例ですけれど、私たちは気付かずに、

「○○」っていうアレね~

と、ひとまとめにして、その印象を決めてしまってはいないでしょうか。

良くも悪くも。


例えば、

「アレね~」の、アレには、いろんなものが入ります


離婚ってね~

不登校ってね~

フリーターってね~

体罰ってね~

虐待ってね~


これは良くも悪くも、です。


例えば、

私は不登校支援をしていましたし、

うちの子もややそうでしたから、

理解はあるほうだと思いますが、


理解があるからこその、良い方に寄りがちかなと思います。


不登校ってね~

学校って、大変だよね

人間関係とか、いじめとかあるし、勉強も大変だし

学校も本当は行きたいのに、苦しいよね~


って、なりがち。


たぶん、本当にそういうことも多いかと思いますが

(大半かもしれませんが)


実際に聞いた例として、

「夏休み明けにただ、単純に、学校に行くのが面倒になって、そのまま何年も休んだ」

と言っていた人の話を聞いたこともあります。


いろいろあるんですよね。



例えば、今は先生による「体罰」、

親による「虐待」、

と称されて、手を上げたりすることって、

厳しく止められてるじゃないですか。


まあ、基本的にはその方向で良いとは思います。


でも、全てそのくくりに入れてしまうのはどうなんだろう、とも思うわけです。


ああ、虐待ね~


って、ひとくくりにしちゃって良いのか?


ただ親がイライラしていて、その憂さ晴らしに子供に手を上げたのか?


それとも、そのことで何か伝えたいことがあって、必要だと思ってやったのか?


私はうちの子どもを、叩いたり殴ったりしたことはありませんが、


それでも人から見たら、もしかしたら体罰に見えることをしていたかもしれないと思います。


それは、次男に関してです。


次男は、自閉傾向の子で、知的にも遅れがあり、小さい頃は特に、人の気持ちを汲み取るのが苦手な子でした。


小さい時には、怒られているのがわからずに、笑ったりしてました。


だから、自分が相手にイヤなこと、悪いことをしたときにも、それがいまいち分かっていない感じで。


そういう時には、・・例えば、兄弟をつねって泣かせたりしていた時には、本人にも同じようにして、「こういう風に痛いんだよ、わかるでしょう、いやでしょう?」と言って教えていました。

(別に、これを人にお薦めするわけではないですが)


まあ、客観的に見たら、体罰に見えますよね、って話です。


当然、同じようなことが学校であったとして、


兄弟が友達になっただけ、お母さんが先生になっただけの話です。


先生が次男をつねっても、多少叩いても、「どうぞよろしくお願いします」って感じです。


(ちなみに、そうやって育てた次男ですが、今は彼なりに、とても人の気持ちを考えてくれる、非常に優しい子に育ちました)


だから、簡単に、ひとつのシーンだけを取り上げて、


「あ~、体罰ね~」

「あ~、虐待ね~」


って、「アレね~」って言ってしまうことの怖さを思うのです。


ある種の状態に、わかりやすく「レッテル(ラベル)」を貼る。


その「ラベル」のイメージが、良くなったり、悪くなったり、流行ったり、廃れたりすることで、みんなの心って、結構、左右されてしまうのではないかと思うのです。


「バツイチ」や「イクメン」などの言葉が広がると、そういうことが当たり前になって、それが増えていく

(その状況が増えているから、そういう言葉が生まれるのだと思いますが、その言葉が生まれるとさらにその状況に拍車がかかる、というのはあると思います)


「体罰」や「虐待」という言葉がフォーカスされると、それが過剰に意識されて減る


でも、「バツイチ」「イクメン」「体罰」「虐待」・・なんでもそうですけど、ラベルは一つだけでも、その中身の状況は、千差万別なわけで。


それこそ、実は簡単に、良いとか悪いとか言えないこともあるんじゃないかと思います。


ラベルだけ見たのでは分からない、個別に、その中身、状況を見る姿勢を忘れずに、というお話でした。


私もそういう姿勢で、ご相談に乗れればと思っています。


何か参考になりましたら、幸いです^^☆



源氏物語



なぜ「源氏物語」を学ぶのだろうと、中高生の時には思っていました。


もう、古文とか、現代人は使わないじゃん、って。


くー・から・くー・かり・しー・きー・かる・けれ・かれ(だったかな?)


とか、古文の活用形とか覚えても、一生使わないじゃん、って。



他にも、学校で学ぶことの中には、そういうことって沢山ありますけど、


この「古文」っていうものも、


「なんでこんなものを学ぶのか?」という


謎の1ピースでありました。



で。


それから20年程がすぎて。


ある時に、はっきりしたタイトルは忘れてしまったのですが、


「2000の願い」というようなタイトルの本に出会ったのです。


それは、自分がやってみたいこと(著者の思いついたもの)が、


ただひたすらに、箇条書きで書いてある本でした。



その「やってみたいことリスト」の中に、


「学生時代にさっぱりわからなかった古典というものが


どうして何百年も残っているのかということを、自分が理解ができるかどうか、


もう一度読み返してみる」


というような言葉があったんですね。


なんだか、素敵だなあ・・と思って、書き抜いておきました。


それで、実際には、全くと言っていいくらい、それから古典には触れていないんですが。


そのあと、いくつかの、パズルのピースのような出来事がありました。



もう7~8年前になりますか、近所に住むおばさまがお出かけのようだったので、


「おでかけですか?どちらまで?」と声をかけたところ、


「本当に、ただの趣味なんですけど、古典を習ってまして。


今、源氏物語をやってるんです。おもしろいんですよ~」って。


とっても品のある方だったんで、


(いや~私みたいなんは、住む世界が違うわ~)と。


ただただ感心して終わっただけなんですけど。



最近もありました。


知り合いのおじいさまが、その方も学のある方なんですが、


「最近は何をやってるときが楽しいんですか?」


と聞いたら、「古典を読んでるときだね~」とか言うわけです。


(出た!古典!私の手の届かないやつだ!)


ということで、続けて質問。


「古典のどこがおもしろいんですか?」


「どこって一言ではいえないよ~」


「そこをなんとか一言で~」


・・人間が描かれているところかなあ。

喜んだり、悲しんだり、馬鹿なことをしたりね。

人間って、昔から変らないんだなあと思うと、ほっとするわけ


みたいなことを、おっしゃってましたね。


私はまだ、古典からはそれを感じられていないんですが、


前に、博物館に行った時には、似たようなことを思いました。


飾ってあるものって、刀とか、器とか、棺おけとか、おもちゃとか、そういうもので。


要するに、人間って昔から、


生まれて、遊んで、年を取って結婚して、子供産んで、戦いをして、


食べて、お酒飲んで、病気なんかして、祈ったりして、死ぬ。


ただひたすら、これを繰り返して来たんだなと。


そして、それは今だってかわらないよね、と。


それと同じようなことを、感じていらっしゃるのかなと思いました。


(文章であるだけに、もっと深いものであると思うのですが)



そしてもって、昨日。


「文藝別冊 永久保存版 河合隼雄」という本を読んでいたんですね。


(河合隼雄さんというのは、日本のカウンセリングの第一人者です)


その本に、出てきたんですよ、「源氏物語」が!



その本の中で、島内景二さんという方が寄稿している『「源氏物語」と日本文化』


という論文?なんですけど。



一部、引用したいと思います。


斜め読みでも構いません。


「源氏物語」って、なんかわからんけど凄いのね~

という感触だけ、味わって頂ければ(笑)。



『「源氏物語」という文学作品がある。

この作品は、喩えて言えば、一本の巨木のような存在である。

ある日ある時、草原のただ中にどこからか「種」が運ばれてきて、発芽した、

太陽光の恵みを受け、土中のさまざまな「養分」を吸い上げることで、すくすくと成長した。成長しつつ形を変えつづけ、遂に現在見られるような姿となった。

見事な開花に引き続いてたくさんの果実を結実させ、それが大地にこぼれ落ちては発芽し、巨木の周囲には無数の「子どもたち」が誕生した。

(中略)

日本文化という大草原に萌え出た草木は膨大なものがあるが、「源氏物語」ほどの巨木は江戸時代まで見当たらない。近代の夏目漱石や森鴎外の林がどこまで育成しているかは「源氏物語」と比較しなければならないが、まだ十分にはなされていない。「源氏物語」を読むことで、どのような日本文化の普遍性を発見できるか、紫式部という文学者の個性にどこまで接近できるか、まさに研究者の腕の見せ所である。それは、「源氏物語」という作品の「母体」を文化史的に定位することで初めて可能となる。あるいは「精神史的」なアプローチと言ってもよかろう。(中略)』


もうちょびっとですからね、頑張って斜めに読んで下さいね(笑)。


『「源氏物語」が他の作品群と決定的に異なる特殊性は、「作品自体が成長し変わり続けた」という側面にある。第一部の華やかな青年の恋愛譚が、第二部では「苦悩する翁」の内面ドラマへと変わり、第三部(宇治十帖)では「第一部と第二部を乗り越え否定する新しい『源氏物語』」の創作が試みられる。一つの作品でありながら、これほど中身が変貌した例は、他にない。作品が変わったのは、「書く」ことによって作者の内面世界が変貌したからである。そして「読む」ことによって、読者の人生も変わってしまう。「源氏物語」を原文で通読し了えた人間は、誰しも読み始める前と異なる「人格」を自分が獲得したことを認識するに違いない。読者を変える力をいつの時代でも変ることなく行使しつづけてきた点にこそ、「源氏物語」の「普遍性」の真髄がある。(後略)』


なんか、凄くないですか。


という雑な言葉で、やっつけて逃げてはいかんですね(笑)。


届かぬながら、もう一息、頑張って自分の言葉で説明してみます。


まあ、要するに、この後の話としては、「河合隼雄」さんというカウンセラー第一人者の方は、この「源氏物語」をユング心理学、という側面から解剖して、源氏物語の中の、この人は、この出来事は、こういう意味をもってるんだ、という説明をしたわけですね。

それが、「紫マンダラ」という本なわけです。


そして、この引用の始めのほうにあった、


『巨木の周囲には無数の「子どもたち」が誕生した。』


という、「子どもたち」、の一つなわけです。「紫マンダラ」は。


おそらく、この引用に載っていた説明(解釈)も、「紫マンダラ」も、無数にある解釈の中の一つなのだと思います。


この「源氏物語」という話は、例えば、「日本文化史」とか「女性史」とか、その他にも、実に様々な側面から研究したり、解剖や解釈などができる、それに耐えうる凄い作品なんだ、という風に、私は理解しました。



学校の先生に、お願いしたいことがあります。


もし、これを見てくださる、先生がいたら。


例えば、源氏物語を教えるとしたら、最初の10分でいいから、こういう話をしてほしいんです。


そこから、生徒達は何十時間も、この「源氏物語」に時間をつぎ込まなくてはならないわけです。なんの意味も感じられずに取り組む子も、たくさんいるでしょう。(わたしもそうでした)


この「くー・から・くー・かり・・」の活用と、自分の人生が、一体どういう関わりがあるのか?

一生古文とかやらないと思うから、何にも関係ないと思うけど?


そうして、意味も訳もわからず、悶々と古文に向き合うわけです。


そうしたら、きっと、何かよほど縁がなければ、一生古典なんか読まないでしょう。



これを読んでくださる先生がいらっしゃいましたら、

どうか、源氏物語を始める時に、


「今日から源氏物語をやります。

はい、教科書の8ページを開いて、○○さん、音読してください」


なんていう風に、始めないで下さい。


「源氏物語」が、どうして長い長い時を越えて生き続け、皆に愛読されているのか。


その秘密を、そして、それを学ぶあなたにも、いつかその秘密がわかる日があるかもしれないことを、少しでもいいから語ってから、授業を始めてほしいのです


今から学んでいく、「源氏物語」(古文)というわけのわからない言葉やストーリー、それがもしかしたら、自分の人生にも関わりがあることなのかもしれない、そう思えるだけで、それを学ぶことの意味を感じられる生徒は、きっと増えると思います。


源氏物語が好きな先生なら、どういう風に好きかを、1時間語ってしまったっていいと思います。


生徒はきっと、将来、「源氏物語」の本文そのものは、ほとんど忘れてしまうかもしれないけれど、先生が「源氏物語」について熱く語っていた、そのことだけは覚えていたりすると思います。


かの有名な金八先生が確かこんなことを言っていました。

「教育というのは、教わったこと全てを忘れても、それでもなお残っているものをいう」と。・・正確かわかりませんが、たしかそんな台詞。


そして、そんな先生の『熱血「源氏物語」論』を聞いた生徒は、きっと年を取って、少し人生が落ち着いた頃、図書館で「源氏物語」を手にとってみる確率が、他の先生に教わった子たちよりも、きっと高くなると思います。


受験に受かるということだけではない。そこまでを見通しての「教育」っていうもんなんじゃないでしょうか。


これは、国語の先生に限ったことではありません。


数学の先生もそうです。


ルートなんて、日常生活で全然使わないのに、どうして勉強しなくちゃいけないのか。


中学で、私がそれを問うた時、先生は誰も答えてくれませんでした。


でも、それから長い長い時間が経って、40も過ぎた頃になって知りました。


電気の技師や、建築家の人は使うんだ、って。


柱の耐震強度とか計算する時に使うんだ、って。


リアルにこの世界で使っているんだと知っていたら、死ぬほど数学が嫌いだった私ですが、もう少し、数学も、おもしろかったのかもしれないな、と思います。


先生方も忙しくて、いちいちそんなこと知らないよ、教えてられないよ、というのが本音かもしれません。


だから、いつもいつもじゃなくてもいいから、時々でもいいから、


「なぜ、これを学ぶのか。どうして、どういう風に、それが役に立つのか。」


そのことを、子供たちに語ってあげてほしいと思います。


そしてそれはきっと、めぐりめぐって、先生自身がお仕事をする上での力にもなるのではと思っています。



30数年前の学生から、あの時言えなかったことを、先生へ。


もし聴いて下さって、そうだなあと思う先生がいてくださったら、


ありがとうございます!!


先生も、子供たちも、楽しく学びあうことができますように^^☆


今日は、次男(高1)の、現場実習の振り返りに行ってきました。



何度も書いてきていますが、


次男は知的障がいと、自閉傾向があります。


で、特別支援学校に通っています。(○○高等学園、ってところです)


そこは、「がっつり就労に向けて!」という感じで、


職業訓練校みたいなところです。


で、一年に一回、現場実習っていう、


企業とか、作業所とか、就労支援センターとか、


高校を出た先にある進路(現場)に行って、


実際に体験をさせて頂く、という取り組みです。



けーすけは、パソコンの作業をやりたかったので、


それができるところとして、「就労支援センター」を、


今回は選びました。



5日間の日程で、今日が最終日で、「振り返り」ということで、


親と先生も同席して、様子などを聞かせてもらう、という日でした。



現場に着くと、次男はかなり慣れた様子で。


部屋にはいる時には、


「おはようございます。○○高等学園の○○けーすけです。


今日も一日、よろしくお願いいたします。失礼致します!」


とか言って。


カッコイイ・・。


で、日課の始まりにチェックシートを書くのですが、


その紙がなかったらしく。


「紙がないんですが・・」と、次男は、担当の人に聞いていたんですが、


「今、○○さんがコピーしてくれるので待っていてください」と言われると、


「承知しました」


って。


「承知しました!?」


私の辞書には、あんまりそんな言葉はないぞ?


凄い!


なんだか、立派な社会人みたいではないか!


と、感動・・(T T)


きっと、ここの就労支援センターで、教えていただいたのですね。



彼らはね、素直なんですよ。


余計なことを考えず、教わったことをそのまま、


「録音して、出す」


という感じなんです。


だから、定型文がきちんと入ると、おお!?っとなります。



でも、定型文がなかなか使えない分野がありますよね。


そう、フリートーク。



昼休みの、「雑談の話し方」というあたりの課題について。


いろいろと、お話いただきまして。


けーすけは、なかなかフレンドリーな方なので、


結構、積極的に話しかけたり、話に入っていったり、


そして自分の好きなことをしゃべるという。


(妄想だったり空想だったりしますが(笑))


家族は慣れてますが、他の人からしたら、たしかに、


どう扱っていいのか、どう話をしていいのか・・という風に


感じられる方もいらっしゃるかもしれません。



でも、それはかなり高度な話だと思っていたので、


今まで、けーすけの「課題」として捉えたことはありませんでした。


もっともっと手前のことが「課題」としてあると感じていたので。


でも、今回、それが「課題」にあがってきた。


はるか遠くの「課題」にすら思えなかったことが


「課題」としてあがってきたことが、


けーすけの成長を強く感じさせてくれました。




それでですね。


就労支援の先生が、雑談で使える「定型」を教えてくれました。



テンプレート



あるんかい、そんなもん?!


と、びっくりしましたが(笑)。


あるんですよね。


世の中、いろんな研究をしている方がおられますので。



ちなみに、その方法とは。


話しかける時には、そのことについての疑問文で。


~例えば、みんなで電車の話をしていたら~


「電車がお好きなんですか?」


終わる時には、共感で。


「電車って、いいですよね~」


って。


たしかに~。


この展開方法は、ナチュラルで、いい感じがする。


あとは、中身ですよね。


人がしゃべり出したら、話を聞くとか。


いい感じに相槌を打つとか。


自分ばかりがしゃべりすぎないとか。


なかなか、一般の人でも難しかったりするのですが、


ひとつひとつ、積み重ねだなあと思いました。



けーすけの、思いがけないくらいの伸びを見られたこと、


そして、「学校やご家庭での積み重なりを感じます」という


コメントを頂いたこと、とても嬉しかったです。



そして、就労支援の方の、プロの見立てをいただけたこと。


雑談の仕方以外にも、


ふたつのことを同時に理解する事の難しさがあるということ。


例えば、「12時になったらあたためて食べてね」みたいな。


これが、どちらかひとつになりがちだと。


だから、それをわけて、メモをすること。


そして、メモを、台の上でなくても、手の上で書けるとよいこと。


タイピングのスピードが上がるとよいこと。


同じ作業のくり返しで飽きそうなら、


介護助手の仕事もいいですよ、とか。


(利用者さんとの対人はほぼなくて、シーツをたたんだり、

手すりを拭いたりとかの、作業をするようです)



これを御覧になってくださっている方の中に、


同じような状況の方がいれば、なんですが。



現場実習では、つい、企業で働かせてもらう、という最終形態に


目が行きがちですが、一年生(二年生?)の時に、


就労支援にお世話になると、そこにいるのは


「発達」とか「就労」のプロの方なので、


本当に細かく、その子の「伸びしろ」とか「課題」を


見つけてくださるので、なかなかおすすめだなと思いました。


その事業所にもよるかもしれませんが・・。



そんなわけで、日記みたいになりましたが、


なにかしら参考になれば幸いです^^☆




胎内記憶。

2024年02月10日


胎内記憶



昨日の記事にもちょっと書きましたが、


胎内記憶の話について。



末っ子の娘を産んだ病院で、助産師さんに、

胎内記憶とか、生前記憶?とか、不思議な話を聞きました。


生前記憶?の方は、昨日の記事に書きましたので、

そちらをご覧下さいね。



今日は、胎内記憶について。


その聞いた話によると、赤ちゃんは、おなかの中のことを

ちゃんと覚えているんだそうです。


で、話が一瞬、脇道にそれますけど。


赤ちゃんって、生まれたときから、すぐに、お母さんのおっぱいを吸って飲むじゃないですか。


あれって、すごいですよね。なんでできるんでしょう?練習もしてないのに・・。


って、思ってたんですよ。


そしたら、なんと!


やつらは(自分たちもだけど)、練習してきてるんだそうです!

おなかの中で!


自分の指をちゅぱちゅぱやって。それで、やりすぎて、ゆびに吸いだこができている赤ちゃんもいるそうですよ!びっくりしました!



・・・・って、すみません、話を戻しますね。


胎内記憶の話でした。



赤ちゃんは、おなかの中のことを覚えているのですが、

だんだんと記憶が薄くなるそうです。


それで、2歳頃までは覚えているようなので、

その頃までにしゃべれるようになった場合は、

胎内記憶をしゃべってくれる確率が高いそうです。


残念ながらうちの娘は、しゃべるのが遅かったので、2歳にはまにあわず。


同じ頃に生まれた、別の子が、なんでも早いタイプの子だったんで、

その子のママにその話をして、「胎内記憶あるか聞いてみて!」とお願いしました。


そしたら、そのママが聞いてくれて。

その子いわく、

「う~~ん、ってなって、そしたら急に、ぱっか~んってなって、きもちよかった!」

と言っていたそうです。

なんか、リアルですよね~。

生まれてくる瞬間の表現でしょうね~!


そうして、我が家では、誰にもその話は聞けなかったなあと

思っていたんです、が。



それから数年たったある日のこと。


パソコンで、ある動画を見たんですね。


受精から、細胞分裂を繰り返して、だんだんと人の形になり、

それが大きくなって、出産を迎えて、誕生してくる、というのを

わずか数分にまとめたCGです。


おおお~~~~!!


って、感動して、子ども達にも見せたんです。


凄いよね!!って。



その晩のことでした。


お風呂に一緒に入っていたときに、娘が、しゃべりだしたんです。

胎内記憶を。

当時、4歳くらいだったと思います。


まさか、その時になって聞けると思わなかったので、びっくりしました。


「あのね、お母さんのおなかにいたときにね

ピンクで、あったかくて、きつかった。」


って言ったんですよ。


びっくりしました。


特に、そういう情報は、与えていなかったと思います。


でも、あのCGに、何か記憶が誘発されたんでしょうね。



後日、調子に乗って、

「あとなんか、他にお腹の中にいたときのこと、覚えてない?」

って聞いてみたら、


「えっとね~、たんすがあって、ひきだしがあった」


そりゃあ、フィクションだろ~~!(笑)


と、いうわけで、その一日ぽっきりでしたが。



ぜひ。2歳までのお子さんをお持ちの方。


胎内記憶、聞いてみてください。



そして、3歳以上のお子さんをお持ちの方。


それっぽいCGを見せて、それから、聞いてみてください。



なにか、それらしい話が、聞けるといいですね!



大変な事もあると思いますが、


大変な時が一番、可愛い時でもあります。



どうぞ、大切に、楽しんで、その時間をお過ごしくださいね^^☆





2024-1-29


先日、おもちゃの片づけをしました。


正確に言うと、みーに、おもちゃの、いる・いらないを分けてもらいました。


もうあと少しで、中学生ですからね。


小さい頃に遊んだものとか、もう見向きもしないで眠っているものが


結構あるのです。


押入れの中でスペースを取ってますので、この際だからということで、


思い切ってやってもらいました。



一日がかりで、おもちゃ箱と向き合い、時折、「あ~!これ、懐かしい~!」


とか言いながら、いる・いらない・考え中の3つに分けていきました。


私は蟹座のせいなのか(蟹座は思い出を大切にするといわれています)


思い出深いものだったりすると、なかなか捨てられなかったりします。


それで、つい、「とっておく」とか「考え中」の箱に入れてしまうことが多いのですが、


みーはなかなか潔く、「いらない」の箱に入れていくので、


やっぱり性格だなあ~、あれはいいなあと思いました。



衣裳ケース一つなので、そんなに凄く大量とかではないのですが、


指輪とかコインとか、キーホルダーとか、細かいものもあって、


結構苦戦してました。


何度も、「あ~、もう疲れたわ~」とか言いながら、


時々、ご飯を食べるとか、おやつを食べるとか、息抜きもしつつ、


でも友達も(ラッキーなことに!)遊びに来なかったので、


一日、それと向き合って、最後は苦しそうでしたが、


「あと10分!」「あと3分!」とか、もうマラソンのゴールのような勢いで、


「頑張れ、頑張れ~!」と励まして、全てを空にしました。


みーには、「頑張ってとか言ってるだけで、少しも手伝ってくれないじゃん!」とか


言われながら(笑)。


私は、一つも手伝いませんでした。


下手に口を出すと、私は捨てられないほうなので、「これ、使うんじゃない?」


などと言って、逆に邪魔する恐れも・・^^;


でも、側で私もただ見ていただけではないですよ。


私は私で、書類の整理があったので、ひたすらそれをやっていました。



で、夕方、やっとみーのおもちゃの仕分けが終わり。


なんかもう、ふたりで、ちょっとした長距離を走ったような達成感です!



思わず私が、


「みー、めっちゃ頑張ったね!!


こんなにずっと頑張り切ったところ、久しぶりに見たわ~!」ってほめたんです。


・・褒めたつもりだったんです。


そしたら、みーが怒りまして。


「あのさ~!夕方まで一生懸命頑張った人に、その言葉はないんじゃない?


お母さんだって、『そんなに頑張ってるお母さん、久しぶりに見た!』


って言われたら、どういう気持ちなの?!」と。


・・ええ、正論です。


「ごめん、そうだね。悪かった。」と、ぽきっと折れる私。


(この折れ方の潔さは、自分でも好きなのです(笑)。


たとえ相手が子供でも、言ってることが正しいと思ったら、折れます。)



でもまあ、一言だけ、ちょっぴり弁解させてください。


このブログに連載?してます、みーのことを、読んできた方には


わかるかと思います。


正直に言いますと、「そんなに長い時間、頑張り切った、みーを見たのは


本当に久しぶり」だったんです。


けっこう、しょうもないみーを、このところよく見ていたから。


でも、私が知らないところで、頑張って学校に行ったり、


そこで我慢してたり、してたんでしょうね。


「頑張ってるのは、今日だけじゃなないよ!」と、言いたかったんでしょうね。


たとえ私が、みーの長時間頑張り切っている姿を見たのが、


本当に久しぶりだとしても、確かに、自分が同じことを言われたら、


あまり嬉しくないような気がします。


「言われて嬉しくないことは言わないように」と、いつも次男にも言ってるのに。


自分も、ついうっかり、言ってしまうんですね。


「久しぶりに」って、一言余計だったなあ・・。


そして、みーは、なかなかに核心を突く「正論」を言うんだよなあ・・。



こんな、みーの反抗期が、始まりかけています。




昨日の記事の、続きのような話になります。



そういうものだと思わせる。


というのは、昨日書きましたが。


逆に、


「そういうものだと思われる」


という、良くない方のパターンがあります。



それが、


ルーティンという罠


です。



子供たちが小さい頃、用事で子供たちをつれて電車に乗ることが


月に3~4回ありました。



子供たちは自販機を見ると、「あれ飲みたいな~」とか言ってくるんです。


なんとしても!という感じではなく、心の声が口に出た、くらいの感じで(笑)。




特に理由も無いけど、「べつにいいよ~」っていう感じで、


買ってあげたとしましょう。


ジュースも色々ですけど、計算しやすいから、仮に150円としましょうか。


子供3人と、自分も買う。これで600円。



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一回そういうことがあると、子供は次も期待します。


その自販機の前を通るたびに、「あれ飲みたいな~」と言ってくる。


それを何回かやっていると、ルーティンみたいになってくる。


子供たちの中では、ここの自販機の前を通ったら買ってくれるものだ、


ということになる。


そうすると、月に4回として、600×4で2400円。


もし、行きだけではなく帰りも買ってあげたとすると、4800円。


かなりな金額ではないでしょうか?



今、自販機を例に取りましたが、いろいろなトラップがあると思います。



昨日の例で言えば、買い物に行った時には(たくさん?好きなだけ?)


お菓子を買ってもらえるのだ、とか。


あのショッピングモールに行った時には、必ずミスドに連れてってくれるんだ、とか


必ずサーティーワンに連れてってくれるんだ、とか。


あの通りを通った時には、必ずクレープやさん(たこ焼きやたい焼きなど、なんでも当てはまります)に寄ってくれるんだ、とか。


思い込まれると、ルーティンになります。


別に、それが悪いというわけではありません。


親もそれが楽しみで、「そこにお金を使うんだ」という意識をちゃんと持って


そうしているなら、それはそれでいいと思います。


ただ、なんとなく、すごく行きたいわけでもないのに、


なんか、習慣としてそういうことになっちゃったから、ということで


なんとなくやっていることがあるとしたら、


それはもったいないので、見直したほうがいい気がします。



子供はいろいろと期待してくるものなので、一度そういうことがあると、


あっというまにルーティンになりがちです。


そういう時に使えるのが、前回もお伝えした「特別」っていうワードです。



基本的に我が家では、出かけるときにはそれぞれマイボトルを持って、


ということをかなり徹底して来たので、自販機のお世話になることは


相当少なかったのですが、それでもたまにはありました。


一番多いパターンとしては、夏の非常に暑い時期に、


行きと、行った先で全部飲んでしまい、帰りにのどがかわく、というパターン。


そういう時には、


「今日は暑いから、このままだと熱中症になりそうだから、特別ね」と


そういう感じで使ってました(笑)。



もし、どうしてもほしいというわけではないけど、


なんとなく、こういうパターンで、ルーティンで使っているものがあれば、


例えば、マイボトルとか、おにぎり持参とか、ちょっとだけ我慢するとか、


そういうほんの少しの工夫で、月に数千円、浮くかもしれません^^☆



何か参考になれば幸いです☆





時折、スーパーとかで見ますよね。


小さい子が、「買って買って、買って~!!」って

泣き喚いて、じだんだを踏んでがんばっちゃってる光景。



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あれ、やらせないために、いくつかコツがあるんです。


(ちなみにうちはやられたことがありません^^!)



1、そういうものだと思い込ませる。


まず、うちの場合は、特に長男の場合は


「買い物に行ったらお菓子を買ってくれるもの」だと


思っていなかった、というのがあります。


当時は経済的に厳しすぎて、お菓子を買うということが


ほとんどなかったのです。


(長男も、私達の大変さを察していてくれた部分もあると思います)


一番下の長女の時には、若干の余裕はありましたが、


それでも、「お菓子はひとつだけ、100円までのものね」


決めていました。


だから、うちの子達は「そういうもの」と思っているので、


それ以上、泣いて頑張るとかはありませんでした。


これはご家庭によって事情は違うと思いますが、


あるルールを作っておいて、「そういうものだ」と思い込ませるのは


かなり有効だと思います。


親が、その時々に気分で、沢山買うとか買わないとか、


不規則であると、要求すれば買ってもらえるのかな?と


思われやすくなると思います。




2、「特別」という枠を作る。


とはいえ、毎回そのルールに従ってばかりでは苦しい時もありますよね。


今回は特売だから、少し多めに買っておきたい!とか。


大人の事情もあったりして(笑)。


そういう時は、なんらか理由をつけて、「今日は特別」と伝えます。


「昨日は、運動会で頑張ったね、だから今日は特別ね」とか、


「明日は、お友達が来るから、ちょっと特別な日だから、大目に買うね。」とか。


でもこれも、あまり頻繁に使ったり、


小さすぎる理由で買ったりすると、


「今日は何か特別なことないの?」とか


「昨日も漢字の小テストで100点取ったけど、特別じゃないの?」とか、


頻繁にねだられるようになりますので、ご注意を(笑)。



3、泣かれても買わない。


これは、「結局、どういうことをすれば、ほしいものが手に入るのか」という 子供側からの視点で考えます。


暴れたり泣かれたりすると、周りの目もありますし、


ついつい負けて買ってしまいそうになります。


しかし、それで買ってしまうと、


「頑張って泣きわめくと買ってもらえるんだ」と、子供は学習します。


そして、要求をかなえるにはそれが効果的だと思い、繰り返すようになります。


逆に、どんなに泣かれても買わない。


無視する、引っぱって外に連れ出す。とか、買わない、とか、


なんらか、その子にとっておもしろくない展開になれば、


「これはやってもダメなんだな」と学びます。


ここは、子供との勝負のしどころですね。



☆おまけ


しつけの最初からやっていただくと効果的です。


一度、癖がつくと、なかなか直りにくいこともあります。


その癖を直すには、直しやすい時期というのがあります。


学年が変わる時や、お誕生日などです。


「もう一つお兄さん(お姉さん)になるんだ」という自覚が


本人に芽生えるので、その時がチャンスです。


そういう時には入りやすいです。


「もう赤ちゃんじゃないから、かっこいいお兄さんになろうね」とか


何か、本人の心に響くような言葉を使って、きちんとお話してあげてくださいね。




何か参考になれば幸いです~^^☆



「不登校が治る!」みたいなサイト、ありますよね。


ある意味、商売敵なんですけど(笑)、私も当事者なので、つい見てしまったりして(笑)。


で。


たしか、うろ覚えなんですけど、


「不登校のお子さんの親御さんに共通するもの」みたいな話の中で。


「~でなくてはならない」という気持ちが強すぎる。


って、あったんですよね。


例えば、「高校はある程度のランクのところに行かせなくてはならない」とか、


「大学もできるだけ行かせなくてはならない」とか。


そういう感じで「~せねばならない」っていう気持ちが強すぎる人が多いです、



そんなような書かれ方をしていたように思います。


で、私はそれを読みながら、


「私、そうでもないんだけどな~」って思ったんですよね。



私の持ってる枠って、あるはあるけど、相当低いんですよね。


「高校は、~高校、って名前が付くところならどこでもいいから」


「学校は、基本的には行こう。遅刻しても早退しても保健室でもいいから。」


「宿題はやろう、できれば」


「明日の学校の準備をしてから寝よう(当日の朝じゃなくて)」


学校のことはそのくらいかな。



学校以外のことでは、


「習い事は、できるだけ行こう」


「お米は毎日研いでね」


「スマホは22時までね」


そのくらいです。



ゆるくないですか?


もはや、「ゆるゆる」じゃないですか?!



しかし、うちの「みー」は、これもできないのです、なかなか。


宿題だって、そんなにあるわけではない。


30分もあれば終わるんじゃないのかなあ。


しかし、やらない!



宿題に関していえば、


まずは、


「宿題、やった~?」


から始まり。


「早めにやっちゃえば~、あとゆっくり遊べるから~」


とか。


「おやつ食べながらでもやれば~」とか


「ご飯の前に10分でもやれば~」


とか、


「いつやるの?」


とか、


様々にパターンを変えながら、10回くらい言うんですよね。


でも、まあ、まずやらない。



・・この際、宿題はもうやらんでもいいです。



明日の学校の準備は、してから、寝てほしい。


朝出る時間になって、もう出ないと遅刻なのに、


「理科の教科書、知らない?」とか、ほんとやめてほしい。



まあ、そんなこんなで


怒鳴ったりするようなことはほとんどないものの、


手を変え品を変え、言い方を変えて、


いろんなことを、それぞれ10回くらい言ってたりするわけです。



学校に行くことに関してもそうでした。


「どう?行けそう?」


「おなか痛いの治った?」


「10時ごろにはいけそうかな?」


とか、いろいろとパターンを変えて、やはり10回くらいは。



けれど、先日の、不登校占いのところにも書きましたが、


そういう態度が、共依存的だったのかな、と。



だから、枠の大きさで言ったら、超「ゆるゆる」なんですけど、


その枠の固さがが、かなり固かったのかな、と。


つまり


「ゆるいんだから、このくらい守ってね、絶対」


っていう感じだったのかな、と。


そしてそれは、形として現れてくるときに、


「口うるさい」っていうことになっていたのかもしれないと思いました。


それで、思ったんです。


枠は、大きさだけではなくて、固さも問題なのかなと。


(私、「口うるさい」かも・・)と思われたら、ちょっと気をつけて。


私と同じことをやっている可能性もあるかもしれません。(⇒共依存的)



私の場合、たまたま、最近、朝早く出る仕事が入りまして。


それに加えて、たまたま、(時々チラシ配りの仕事が入るのですが)


チラシ配りの期限が迫ってきていて、その翌日も、朝からチラシ配りに出まして。


2日続けて、みーの見送りはせず、パパに、


「後はよろしくお願いします!」ってお任せして、私は登校時間には


家を出てしまっていました。


そうしたら、2日とも、ふつうに学校に行ったんですよね。


・・これは・・と思い、


昨日も今日も、私はチラシ配りで早くから出てしまうようにしたら、


みーは調子よく学校に行っています。


ただの偶然ではない気がするんですよね・・ここまでくると。



2024-1-25



親離れ、子離れ、ということ。


枠の大きさ、固さ(⇒口うるささ)ということ。


どこから、どうやって、手を離したらいいかということ。



きっと、どの子、どの親、どのパターンでも同じではないと思います。


十人十色かと思います。



一番大切なことは、「観察する」ということである気がしています。


いろんな専門家がいろいろなことを言っても、


やっぱり一番近くにいる親が、一番わかっているような気がします。


それでも、近くで見ているからこそ、近すぎて見えにくくなることも、


知らずに何かにはまっていることもあるので、


そういうときには、外からの目を参考にすることも必要かもしれません。



そして、「願う」こと、「祈る」ことも、何かのきっかけになるかもしれません。


そこから偶然のようにして起きてくること、そのことから得られる反応、


そこでもやはり「観察」が大切になります。



明日は獅子座の満月。


明後日、アストロラーベでは、博史先生が、「切る祈願」を行います。


もう終わってほしいこと、切り替えたいこと、手放したいことなど、


ぜひ、掲示板に書き込んでみてくださいね^^☆


このところ何件か、叶いましたよ~!という嬉しい書き込みも頂いています☆






今日も学校をお休みした、みー。


そうだ!と思い立ち、今読んでいる「発達心理学」の本の、

ある項目を見せました。


それは、「自我の発達」という項目。


乳児期、幼児期、遊戯期、学童期、青年期、前成人期、成人期、老年期・・


それぞれの年代での、発達における課題と、その課題を解決できなかった時に陥る危機、というのが一覧表で見やすく書いてあります。


ひとつひとつここで説明すると、あまりに長くなりますので、

今日は、みーと話した部分だけになりますが。



「学童期・8~12歳ごろ」


っていうあたりで。



「ねーねー、みー。見てごらん。


あなたは秋生まれだから、12歳がもう少しあるけどね、


12歳ごろまでに発達として獲得しなければならないものっていうのがあってさ。


それが獲得できなかった時に、陥る危機っていうのも書いてあるわけ。


でね、ここ見て~。


学童期、12歳ごろまでに獲得すべきものは、「勤勉」。わかる?勤勉。」


勤勉


「わからん」


「勤勉っていうのは、こつこつ真面目に努力することだな」


「ああ~・・(ちょっと、あちゃ~的な感じで)」


「で、それを獲得できなかった時に陥るのが、これだ。劣等感。

劣等感、わかる?人と比べて自分はダメだ~ってやつな。」


「なるほど・・(ちょっとしみている感じ)」



もうね、これは、本当に彼女の課題なんですよ。


彼女は、天秤座なんですけど、天秤座の支配性は金星なんですけど、

アスペクト(星々の作る角度)を含め、金星が効き過ぎてる感じの子なんです。


もうすこし日本語で分かりやすくいうと。


金星って恋愛とか、楽しいこととか、芸術とか、そういうことを司る星です。


彼女は本当に、楽しいことが好きで、芸術的な感覚があって、

絵を書いたり、歌やダンスが上手だったりするのですが、そこに自分の気持ちを乗せるのが非常に上手い!


出し物等で舞台に立ったりすると、それだけで存在がキラキラしている。

(親の欲目と思うかもしれませんが、それだけじゃないんです。うちには3人子供がいますが、ちょっとそのあたりは、みーは、特別なんです。博史先生も彼女の舞台でのダンスを見たことがあり、「一番新人なのに、センターの踊りですよね」って言ってくれたことがあります。)


なんていうのかなあ、「センスの塊」みたいなところがあります。


逆に言うと、「センスだけで生きてる」という感じが・・(笑)。



金星



センスがあるのはいいことだけど、それだけじゃあさすがになんにもならないよ・・

というのが、母の心配でして。


やっぱり、センスだけじゃなく、「コツコツと努力してモノにする」ということが伴わないことには、なかなか、何をやってもね・・。



そういうわけで、「毎日米を研ぐ」ということを、やってもらうことにしたわけです。

(できないときもありますが)


もはや自分でやったほうが早いと思うときもありますが、それでも5回でも10回でも、

毎日、「みー、お米研いで~」と、ブロークンレコード法で繰り返すわけです。


それは、ひとえに、どんなささやかなことでもいいから「続ける」ということを、彼女の身につけてあげたいと思うからなんです。



さっきの会話に戻りますけど、


「だからね、私が毎日あなたにお米を研いでって言ってるのは、

この「勤勉」を身につけて欲しくて言ってるわけ。はじめっからそのつもりなわけ。

・・わかった?」


「・・なるほど」


みーは、センスのある子なんで(こういう話でも肝心なところをつかめる)、

たぶん私が何を言いたいのか、伝わったと思います。



今まで私が、ばかみたいに繰り返して言って、やらせてきたことが、

(その時々に何度も説明したつもりなんですが)、たぶん、あの表を見て、

具体的に「なるほど」って思えた部分があったのではないかと思います。



これからは、「勤勉さ、大事だぞ~。欠けると劣等感になるぞ~」って言おう。


たぶん、何回か繰り返して言ってると、


「お母さんがそうやって言い過ぎることが、子供の劣等感を強くするわけ!」とか

言い返されそうなんですけど(笑)。



彼女、時々、「あ、それはそうだわ」というような、ちゃんと理屈の通ったことを言うんですよね。


それで、そういう時は、私は素直に、「あ、それはそうだ。ごめん。」って、

ポキッと折れます(笑)。


この折れっぷりは、自分でも好きなところです。



昨日の、学びの花が咲く瞬間、っていう話にも似ていますが、


子供に(相手に)話が伝わる瞬間、っていうのもあるよね、という話でした。



何か参考にして頂ければ幸いです^^☆



y


このところ、社会派の記事を連発してしまいましたが。


その間に、新学期も始まっております。



去年の暮れ、そして正月明けと、ご丁寧に2回にわたり、

わたくし、寝込むレベルの風邪を引きました・・。


ようやく昨日、今日辺りから、「復活」という感じです。



新学期の初日も、私は具合が悪く。


主に腰が痛かったんです。


2回目の風邪は、咳がよくなって来たと思ったら、代わりに腰が痛くなってきて。


なんとなくこれは、「去年一年の疲れだろうな・・」と感じていました。



そんなこんなで、新学期一日目は「行く」と、みーは言ってましたので、

あとは「パパ、よろしくお願いします」ということで、私は「病人です」という感じで寝ておりました。


いつもは、パパもお仕事があるので、多少、みーに声を掛けたりはするものの、あとは出勤モードになって、自分のペースで好きなように動いて、「あ、もう時間だから。行かないと間に合わないから、あとはよろしく~」みたいな感じで出かけるのです。


パパもお仕事が大変なのはわかっているので、有難いと思ってるし、みーのことも私が、というのは仕方ないと思ってはいるのですが、でもちょっとだけ、


「仕事さえしてれば、あとは子供のことはおおかたよろしく~でいいんだもんなあ。気楽でいいなあ。」と思ってしまうこともあります。

(「仕事さえしてれば」っていうだけでも大変なのはわかってはいますが・・)


でも、この日は、パパも、私が寝ているので「自分が送り出さねば」というガッツリ自覚モードになってました。


で。


せっかくなので、私はがっつり「病人モード」になって、パパにお任せして、客観で観察をしていました。


パパ、最初は穏やかに、みーに声を掛けるものの。


なかなかみーが動かないので、なだめたりすかしたり、ちょっと厳しい声を掛けてみたり。


パパは私よりも気が短いので、だんだんとイライラしてくるのが手に取るようにわかりました。


そのうち、明らかに怒ってる感じの調子になってきて、

「学校休むんだったら、一日スマホ禁止だ!」と。


で、ついでに、パパは、みーにはスマホのロックの解除の暗号を教えていたのですが、「もう、それも変えるから!勝手に使えないようにするから!」とかいって。


あ~、それ3年位前にやってほしかったわ~、と思いました(苦笑)。



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観察してて思ったのは。


やっぱり、子供が学校に行く行かないに付き合うのって、本当に大変なんだなということ。


自分が渦中にいる時には、なかなか客観視ってできないものですが、ちょっと離れたところから見たときに、「いや、これは大変だわ~」と改めて感じました。


みーは、2学期、21日休んだのです。そして、55日登校しました。


21日のうち、すぱっと気持ちよく朝から「家で勉強する」と休んだ日もあれば、

登校した55日の間にも、行くの行かないのとさんざん大変な思いをしてなんとか行った日もたくさんありました。


大変だった日は、一体何日あったのでしょう。


たぶん、40日程度なのかなあ?


この、客観で見ていて、なかなか大変そうなこのやりとりを、私は2学期、40回近く、おそらく繰り返したのだろうと思うと、そりゃ、腰が痛くなっても仕方ないかなと思いました。


あ、ちなみに腰痛の原因って、8割以上の人が不明なんだそうですよ。


そして、実は隠れ原因として、「ストレス」っていうのが、かなりあるようなんです。


(おつかれさま、自分~)と思いました。



そして、全国の不登校児のお母さん(お父さん)にも、「本当にお疲れ様です~」って思いました。


不登校、本人も大変ですけど、親も大変ですよね。



時々、疲れちゃうのも仕方ないです・・。


たまに嫌になってみたり、問題を横に置いてみたり、棚にあげてみたり、ちょっと忘れてみたり。


やっぱり向き合ってみたり、考えてみたり、話したり、聞いたり、学んだり、なにかやってみたり・・。


それでいいんじゃないでしょうか。



うちも、私が寝込んで、子供たちに言っても誰も洗ってくれないから、台所のお皿がたまりにたまって、過去最大の山になって。


たまりきったところでパパが洗ったら、1時間もかかったっていう・・。



もうねー、自分の子育てを反省しましたよ。


こういう子供たちを、自分は育ててしまったんかい、と。



お皿の洗い方も、すすぎ方も、拭き方も、教えたのに、何がいけなかったんだろう、って。



けど、「腰痛いわ~、頼むわ~」と、まためげずに言ってみたら、やってくれましたね、お皿洗い。


なんだ、やればできるじゃん!



そう、だいたいのことは、たぶん「やればできる」。


逆の表現をすると、「ほんとはやればできるのにやらない」(苦笑)。



では、なんで「やらない」のでしょうか?


それは、「結局は、親がやってくれる」と思っているからだと思います。



だから、それに対するひとつの方法として、


「お母さん(お父さん)、もう歳だからさ~戦法」というのがあります。


まあ、今回みたいに「病気だからさ~戦法」でもいいと思いますけど、

これは「どうせ元気になるんでしょ」という向こうの甘い期待があります。


演技でいいんです。


「お母さん、年だから物忘れひどくて」とか


「これ、大変すぎて、一人でやると腰が痛くて」とかいって、


(自分がやらないことには仕方ないんだな)と自覚してもらう。


話には聞いていましたが、再度それを思い出して、


「あれな。確かに大事かも。」と、今、かみしめています。



k



「YDK(やればできる子)」をお持ちの、現在お困りの親御さん、


よかったら「歳だからさ~戦法」、使ってみてください^^☆


リアルに、老け込んじゃダメですよ。


あくまでも、たまに使う演技で(笑)!






christmas


今年も我が家に、無事にサンタクロースがやってきました。


長男は20歳なので、もう来なくなってしまったのですが。


高1の次男と、小6の長女のところには、今年も来てくれました。


次男は、一昨年くらいは、サンタクロースの事を、知人の資産家のSさんなのではと踏んでいたらしく、「Sサンタ」と呼んでいました。

でも、いつしか、その呼び方はしなくなりました。


長女は、すごく現実主義な子で、好きなものは「お金とお肉」っていう(笑)。

テレビで、宇宙人のミイラの分析を、大学とかでやっているのを見て、私は「ほんとにやっぱいるんだね~!」と驚いて信じてるのに、娘は、「いや、まだちょっと信じられん」と言っているような子です。

そんな彼女は、動画で、サンタについてのアニメを発見したらしく、先日私に見せてくれました。それによると、サンタクロースは、巨大企業が抱えている秘密結社だそうです。

超現実主義な彼女は、その様に理解して、サンタクロースをとらえているようです。


次男が「Sサンタ」と言わなくなったのも、もしかしたら、長女から「こういう風になってるんだよ!」と教えられたのかもしれません。(無粋だから聞きませんが)



ともあれ、今年も、無事にサンタクロースはプレゼントを置いていってくれ。


次男は、大好きなポケモンの、イーブイのぬいぐるみがあるのを見つけると、にま~っとして部屋へ。


長女は、次男よりも品数としてはたくさんのものをもらったにもかかわらず、相当不満足げで。

「なんかびんぼーくさいプレゼントばっか。高級なものをもらってる子もいるのに」

と、のたまってましたが、

そこは私も、「秘密結社」という世界観の中で、

「子供の数もたくさんだし、予算も限られてるわけだろうし、くじ引きとかでいいものが当たる子もいるんじゃん?」と。


しかし、長女がもらったプレゼントは、地味に彼女に「必要なもの・確実に使うもの」だと、母は知っていたので、あんな風に文句ばかり言っていましたが、使うときには、だんだんと、「もらってよかったな~」と、サンタさんに感謝するような気持ちになってもらえたらいいなと思っています。



って。


我が家のクリスマス記録になってしまいましたが。



改めて。




私は、クリスマスが大好きです。


なぜかというと、子供たちがサンタクロースという存在を信じ、

その信じる子供たちを、周りが優しい結界で護っているからです。


例えば、電車で小さい子が、たまたま隣に座ったおじいちゃんに、

「ねーねー、サンタさんにこれもらったんだよ」と言っても、

「よかったねえ」と微笑んでくれて、余計なことは何も言わないでしょう。


近所のお姉さんに、「おねえさんのところにもサンタさんくる?」と聞けば、

「子供の時には来てくれたよ」と答えてくれるでしょう。


これは大人と小さい子供との関係に留まりません。


小学生くらいの同級生同士の間でも、信じる派と信じなくなる派にわかれますが、

魔法の解けた「信じない派」の子でも、「信じる派」の子が

「サンタさんがこれくれたんだよ~」というと、ただ「よかったね!」と言います。


もはや「集合意識」とも言うべき、魔法の優しい結界によって、

「サンタクロース」という存在は護られています。


そういう結界が張られる、クリスマスは特別な日です。


そのことを思うと、なんて奇跡みたいな日だろうと思って、

いつも涙ぐんでしまうのです。


こういうような気持ちが、少しずつ世界に広がっていけば、

世界って平和になるんだろうと思っています。



来年も、子供たちのもとに、無事にサンタクロースが来ますように。




ばか



先日、みーが自分のことを「ばかだ!」と言って泣いていた、という話をしました。


改めて考えてみると、日本語の「ばか」というレッテル?というか、この言葉の指す範囲は、非常に広いものになります。英語とかに訳したら、微妙なニュアンスまで含めると10こくらいになっちゃうのでは?なんて思います。


「ばか」の例をあげてみましょうか。


勉強ができない。


物忘れがひどい。


物覚えが悪い。


ろくに考えずに動いて失敗する。


言わなくてもいいことを言う。


食べ過ぎておなかをこわす。


いろいろなことが自分で決められない。


裸の王様になってるのに気付いてない人。


ババ抜きでジョーカーを引いた時、もろに表情に出る。


落語に出てくるようなおっちょこちょい。


友達のままだったら上手くいってたかもしれないのに、告白して玉砕する。


応援している野球チームの優勝が嬉しすぎて、川へ飛び込む。


私的には、最後の4つあたりは、「おばかさん」とでも言いたいような、かわいさすらあるんですけど(笑)。


そうそう、「おばかさん」にいたっては、もはや「かわいい」の変形ともいえます。


けれどもまあ、どちらかというと良くない意味がほとんどな中で、「ばか」と言われた時には、上にあげたような全てのカテゴリを含んでしまうんですよね。


例えば、ろくに考えずに動く、とか、物忘れがひどい、というようなタイプの子に、「ばか!」「バカ!」と年中言っていたら、「自分はバカなんだな。だから勉強も出来ないんだな」と思うようになりかねません。


これらの「ばか」は、実は色々な分野に分かれています。学習、記憶、理解、空気を読む、衝動性、計画性、洞察力、判断力、などなどです。


ひとつのことについて「ばか!」「バカ!」と言っていると、他の分野のことまで否定されているような気持ちになっても仕方ありません。そして、元々持っていた、結構高めの他の能力も、同時に伸び悩んでしまうこともあるんじゃないかと思います。


だから。


これらを丁寧に分解して、その足りない部分だけを注意してあげるといいです。


「これをしたらどうなるか、考えてから行動しようね」とか。


「忘れてしまうなら、思いだせるように工夫しようね」とか。


勉強でも、「勉強が苦手」って、一言で片付けてしまうのは、あまりにもったいないです。


文系、理系、っていうのも、あれも雑な分け方だと思います。


みーは、算数は苦手ですが、理科はかなり好きです。


そして、理科の中でも地学系かな?ひとつは好きじゃないものがあるとか。


「この教科が嫌い」、それでもまだもったいない。


国語は好きじゃないけど、漢字を覚えるのは結構、得意。


理科は、化学も物理も好きじゃないけど、植物だけは好き。


社会はあんまりいい点は取れないけど、戦国時代の武将のストーリーを語るのが大好き!


いいじゃないですか~、それで!


だいたい、なにもかも平均的に出来るような人材が求められたのは、高度経済成長期の、「金の卵」と呼ばれる人たちの時代のことです。


今は、平均的に何か出来たからとて、そんなものはAIやロボットに簡単に取って代わられてしまいます。


自分の中に、それこそ「ばか」でもなんでもいい、「これ!」というものを持っていたほうが強いのではないかと思います。

そして、逆説的ですけど、「バカとなんとかは紙一重」なんていいますけど、「バカ」と言いたくなるようなタイプの子の方が、もしかしたらですけど、一芸に秀でる可能性が高いかもしれません。よく、ある分野の専門家(行き過ぎてるタイプの人)を、「~馬鹿」なんて言いますしね。


ちなみにうちでは「天才!」を量産してます(笑)!


うちでは私は、割とちょっとしたことで子供に「天才!」とか言います。

子供たちは本気で自分のことを「天才!」とは思ってないですが、それでもちょっと嬉しそうにはします。誰かと比較しての「天才」ではないかもしれないけど、その能力を天から授かっているという意味では、「天才」でも当たっているのかも知れませんね。


まあ、いくらいっても無料ですし(笑)、いい気分になれるものだから、言葉は使いようだなって思います^^☆


先月のことになりますが。


みーが、まさかのことをやらかしました。


毎週火曜にお絵かき教室、水曜にチアダンスの習い事に通っているのですが、なんと3回も行くのを忘れたのです。習い事の日には、玄関に、今日は習い事がある旨を、メモに書いて貼っておくのですが、それでも忘れる・・。

3回目なんて、さすがに本人も多少は懲りて、気をつけるぞ、と自分でも思って。チアの日だったので、服も着替えて、ちゃんと行く気になっていたのです。

それなのに。


着替えてから、パソコンに向かい、たぶん動画でも見ていたのでしょう。そのまま忘れてしまいました。本人曰く、タイマーをかけていたというのですが、動いていなかったか、そのあとに間違って触れてリセットしてしまったか、鳴ったのが聞こえなかったのかもしれません。


チアの日には、友達と一緒に、友達のお母さんの車に乗せてもらっているのですが、アストロラーベのお仕事をしていたら、そのお母さんからメールが来ました。「みーちゃん、来ないのですが、今日はお休みでしょうか?」・・と同時に、みーから電話。泣いてました・・。「忘れちゃったんだ・・もう間に合わない・・」。


急いで家に帰り、私はその日、チアの練習終わりの掃除当番だったので、みーに「今から自転車で一緒に行こう」と言いました。でも、みーはパニック。習い事を立て続けに、しかも、今回はちゃんと行くつもりだったのに忘れてしまい、自分でも相当ショックだったようでした。

「ばかなんだ、なんて私はばかなんだ。もう絶望だ。あああ~~もうだめだ~~~!!」というような調子です。なだめてもすかしてもどうしてもだめなので、仕方ない、私だけ掃除当番に行きました。そして、友達のお母さんにもわけを話して、よく謝っておきました。


帰ってきてみると、まだみーは凹んでいます。自分のことを「ばかなんだ、本当に私はどうしようもないばかなんだ」と、かなり自虐的になっていました。


だから、少し話をする事にしました。


「落ち着いて。ちょっと座ってごらん。少しだけ話をするから聞いて。

みーは、自分のことを「ばかだ、ばかだ」って言うけど、私はそうは思わないよ。

いろんなものをよく見てるし、どうしてだろうって自分の頭で考えることもできる。ボードゲームだっておにいちゃんを負かしちゃうくらい強い。

私もみーと同じようだからわかる。忘れちゃうのは、次から次へといろんなことを思いつくからでしょう。それだって、頭がいいっていうことだよ。

パソコンに集中していてタイマーの音が聞こえなかったんだったら、それは音も聞こえなくなるくらい、高い集中力を持ってるっていうことだよ。

だから、あなたは、忘れっぽいかもしれないけど、「ばか」なんじゃないよ。

忘れっぽいなら、「思い出すシステム」を作ればいいだけのことだよ。

自分のこと、「ばかだ」なんて、思っちゃだめだよ。」


そう話しました。


そうすると、少し落ち着いたようで、だんだんと元気になってきました。


みーも、私のADHDっぽいところを、受け継いだのではないかと思います。

でも、それはそれで、悪いことばかりじゃないと思うんです。


欠けているところをうまく補いながら、上手に生きていくことが大事。


みーのために書いた(今、部屋に貼ってあります)、「忘れた事を思い出すシステム」、画像で載せますので、良かったら参考にされてみてください。


2023-12-6


認知症の方にも使えるのではと思いますよ!



何度か書いております、我が家の教育方針。昨日も書きましたが、


1、学校へ行くこと

2、学校へ行けなくても勉強はすること

3、勉強もできない時は病気の時です


っていう。


今日は、この2と3の間。2.5あたりの話です。


今日は、みーは学校に行く気でした。基本的には進んで行きたい学校ではないですが、情緒も乱れてなかったし。しかし、おなかが痛くなってしまったんですね。寒いとすぐにおなかをこわす子なんです。(観察していましたが、自家中毒ではない感じでした)


じゃあ、治ったら行こうか、とは言ったものの、これがなかなか治らない。治ったか?と思いきや、「絶対この感じでは外に出たらおなかこわす」「もうちょっと、まだ変」「ちょっと痛い」あたりを、行ったり来たりしてました。

で、基本的には布団にほとんど入ってました。(様子を見ている限り、嘘をついてるとかではなくて、行こうとは思っているけれどどうしてもおなかの様子が変、という感じでした)寝てはいるんだけど、特に具合が悪いというわけではない。まあ、2と3の間という感じです。


とはいえ、寝ながら漢字練習、計算練習とかは厳しいので、本を読ませることにしました。「日本語であそぼ」で有名な斉藤孝先生の、「ガツンと一発」シリーズ。「カッコよく生きてみないか!」という本です。これも何年眠ってたかわらからない本。この度、初登場!


で、読んでおいてね~と言って、読み始めたのを確認して、家の事をやって、また戻ってきてみると、読んでない。「あれ、何で読んでない?どうした?」と聞くと、「手が寒い」・・(どんだけお嬢さんやねん!)と思いつつ・・はっと思い立ち、もうほとんど使っていない、毛玉になってきた赤いてぶくろ(軍手みたいなやつ)を出してきて、両方の親指と人差し指の先だけ、ちょっと切りました。ページがめくれるようにです。


全部の指が切れているのはありますが、親指と人差し指だけってないですよね?私って天才!とか、一人でご満悦になりつつ、買い物へ。帰ってきたら、また読んでない。「どうした?」と言ったら、「指が寒い」(指の先4本だけやろ!?)


tebukuro


で。お昼にしようということになり。「お昼食べる?」「食べる」「食べられるなら、食べたら学校行こうか」「でもまだおなか痛い」「おなか痛くても食べれるんかい?」「食べれるけど学校は無理」


でも、この時もどうしても嘘をついているようには感じられず。痛いだの、変な感じがするだの、そんなの本人にしか、本当のところは分からないですよね。だから2時の時点で、今日は諦めて、「おやすみします」と学校に電話しました。


仮病なのか、そうじゃないのか。一体何なんだ、とか、イライラする時もありますよね。


小さい時に可愛がってあげなかったからだろうか、とか、よく夫婦喧嘩をするから情緒不安定になるのかな、とか。親のほうにも、何かしらの心当たりがある場合もあるかもしれません。

でも、あまりそこばかりに自分が引っかかっていても、自分も気持ちが落ち込んでいく。そうすると、子供を見ていて余計に不安になる。自分のせいかもと自分を責めて、余計に落ち込む。そういうことってあるんじゃないかと思います。

しまいには「どうせお母さんが全部悪いんでしょ!(こういうお母さんのところに生まれてこなければ良かったね!!)」なんて、心にもないことを言ってしまったり。そうなると、どんどん悪いサイクルにはまってしまいます。


一日中(特に登校時間~下校時間)、子供のことが気になって仕方がないという方もおられるかと思いますが、それでは親も身が持ちません。適当なところで、「今日はもうこれで!」という感じで、気持ちを切り替えて、その事を忘れて、他のことに向かえる時間は必要です。


保護者のせい、という部分はあったとしても、それはそれで仕方のない理由がある場合もあるでしょう。過去をどうにかすることはできないのだから、ここから先をどうするか。

もしかしたらお子さんは、保護者の方と一緒にいることで、何かを埋め合わせようとしているということもあるかもしれません。一日一日が学びです。子供はあっという間に大きくなっていきます。


いろいろとありますが、お互いに子供と向き合える一日を、いっときを、大切に過ごしていけたらいいなと思います^^☆


追伸 出てくる前にみーに、「「カッコよく生きてみないか?」、感想を聞かせてね!」と言ったら、「あたし、カッコよくなくてもいいわ、楽しく生きられれば」と(笑)。そういうみーの、自分の意志がハッキリしたところも、私は好きです・・^^☆



勉強する子供


本日もみーは学校を休んでいます。


とはいえ、前にも書きましたように、我が家の教育方針としては、


1、学校へ行くこと

2、学校へ行けなくても勉強はすること

3、勉強もできない時は病気の時です


っていうことなので、勉強は基本的にやってもらいます。(情緒があまりに乱れている時には、落ち着いてからですが。基本的にはそういうことになってます。)


だから、今日、学校に電話する時にも、「今日は朝からかなり気持ちが乱れているので、家で勉強させます」というような言い方にしました。「学校を休みます」だけだと、「お休みだ!」って感じになっちゃうじゃないですか。「いや、勉強する場所が変わるだけだよ?」っていうスタンスですね。


前は、時間割どおりに、それに相応するようなことをやってもらってました。でも、なかなかそれが難しい時もあります。今日の授業なんて、ほんとそれ。


図工、体育、道徳って、どうやるのさ?っていう。


なので、勝手に「今日の課題」を、私が拵えてしまいました。こんな感じです。


午前 漢字練習5ページ、算数ドリル1ページ、漢字の成り立ち(っていう家にあった本)書き写し45分間。

昼から 図書館に本を返す、買い物、野菜炒めを作って食べる

午後 理科参考書の好きなページを書き写し45分間・動画を見ながらダンス。


っていうことで。


今日は早めに気持ちが切り替わったようで、がつがつやってます。エライ!


学校ではあんまり教えてくれないけど、大人になるまでに出来たほうがいいことっていっぱいありますよね?料理とか、そうじとか、片付けとか、洗濯とか、買い物とか。料理は調理実習で少しはやるけれど、みんなでやるから、なんか「ほうれんそうをちょっと切っただけ」とか、「盛り付けただけ」とか、あんまり「できる」感まで至らないじゃないですか。調味料とかも、実際の台所では、大さじ、小さじ何杯、とか、ほんとはそんなに細かくやらないじゃないですか。(やる方もいらっしゃるかと思いますが!私もたまには初めてとかのレシピの時には気にしたりもしますが、基本おおざっぱなので、ほんとにたまにしか計らないです!)

だから、今日の課題「野菜炒め」も、材料だけ洗っておき、後はメモで、「味付けは基本、塩、コショウ。お好みで、にんにく、しょうゆ、オイスターソース、ごま油など」って書いておきました。

そういう実践的な調理って、学校ではやれないので、やっぱり家で教えるものなのではと思います。でも、学校から帰ってくると疲れていたり、習い事とかで忙しかったりで、案外、教える機会がないので、たまにはこういう経験もいいのかなと思います。


ちなみに、上記に出てきた、「漢字の成り立ち」っていう本、古本屋さんで10年位前に買ったものなんです。しかし、子供3人、誰も読まず、本日に至る・・(笑)。

本日、こういう機会があり、我が家に来て10年目?に、初めて日の目を見るわけです~^^☆☆☆


そういうわけで。学校に行かない日は、親もイライラしそうになりますが、こういう時だからこそできること、教えられること、というのを、やらせてみる。時間がある場合は、親子で取り組んでみると、「災い転じて福となすのだ!」ということで、案外、良い時間になるのではと思います。お試しくださいませ^^☆





不登校



長女のみーが、行きしぶり&時たま不登校になってから、結構たちます。もう一年くらい経つでしょうか。割と調子よくいける週もあれば、そうでもないときもあります。いわゆる「五月雨登校」的な感じです。


朝起きたときにはまあまあ良い感じでも、だんだんとあやしくなってきたり。


で、遅刻するにしても、「9時ごろいけると思います」って言ったのに、やっぱりだめで、「やっぱり10時になります」とか。何度も学校に電話してるこっちも嫌になってきます。


あ、ちなみに今、うちの小学校のシステムでは、学校への連絡フォームっていうのがあって、ネットで「休む・遅刻」とか、ポチッと送信するだけ、という実に便利なものがあるのですが、先生にお願いして、それは使わないでいます。っていうのも、私なりの作戦があるからです。


そりゃ、ポチッで済めば、私も楽なんですよ。でも、それじゃいかんというのが私の中にあって。(全ての人に当てはまるわけではないと思います。私とみーの場合は、ということです。)


学校に電話する時には、携帯から、スピーカーホンで、みーに聞こえる場所から、大抵はかけます。(お母さんが毎日頭を下げてるんだ、先生がやさしく対応してくれているんだ)ということを感じてもらいたいからです。何の葛藤も無く、やすやすとお休みしてはほしくないわけです。(これは、その子の状態や性格などにもよると思います。安心して休める状況を作ってあげたほうがいい場合もあると思います。)その葛藤を親子共に、一応乗り越えて、「今日は行く」とか「今日は家で勉強する」とか決めていくのが、現状の我が家のスタイルです。


で、数日前に、本人が「ごはん食べ終わったらいく」と言っていたのに、そのまま布団にもぐってしまい、「行かない」と言うわけでもなく、起きてくるわけでもなく、一体?という状況で時間が流れていく日がありました。このところ、時たまそういう時がありました。そうすると、「○時に行きます」とも言えない訳ですよ。で、「ごはん食べてから」という電話を8時半くらいにしたのに、10時を過ぎてしまいまして、担任の先生からお電話を頂きました。「遅刻する時には、保護者の方に一緒に来ていただくことになってるんですよー、お手数なんですがお願いできますか?」と。

ああ、そういえば、前にもちょっと言われたことがあったなあと思い出しました。


基本的には、そういえば、うちの小学校はそういうことになっているのだと、前にちょっと聞いたことがありました。でも、先生方が気を遣ってくださって、一年くらい、見逃してくださっていたのですね。でも、何時に来るかわからない、という状況が何回かあったので、これはもう言わなくては、ということになったのでしょう。

ああ、ついにきたかーと思いました。


ただでさえなんだかんだと忙しい日常に、学校まで送るという時間を作るのは、正直気乗りするものではありません。


まあでも、ものはとらえようです。「災い転じて福と成す」です!転んでもただでは起きないぞ、というのが私のポリシー(笑)。みーとしても、学校に行きたくないのにも、なにか理由があるんでしょうし。それがはっきりと言葉にはならなかったとしても、なにか潜在意識(深層心理)の中で「欠け」みたいなものがあるのかもしれないし。私も実際、仕事などで忙しくて、なかなかみーに意識が向けられなかった時もあるし。これは、それを埋めるための時間になるかもしれない、そういう風にしよう、と思いました。


で、昨日載せた茨木のり子さんの、「おんなのことば」の中に、


子供たちには ありったけの物語を話してきかせよう

やがて どんな運命でも

ドッジボールのように 受け止められるように


っていう言葉があったので、「これから学校に行く日には、なんか昔話とかしてあげよっか、小さいころあんまりしてあげなかったし」とみーに言ったら、「そういうのはいらんわ」と言われ、砕け散る(笑)。しかし、第二弾を用意してまして、「じゃあ、クイズしよっか」と言ったら、「やろう、やろう」と。


みーの出してきたクイズは、「トイレのはなこさんはどうしたらでてくるでしょうか?」・・(知らんわそんなもん)・・「わかんないな」・・「夜中に学校のトイレにいって、手前から三番目かな、そこのトイレのドアをコンコンして、「はーなこちゃん、あそびましょ」っていう。で、「おままごと?おにごっこ?」って聞かれるんだけど、ままごとっていうと殺されて、鬼ごっこって言うと、つかまったらころされるっていう」「どのみち殺されるのね(笑)」


「じゃあ、おかあさんから問題。お母さんの初恋はいつでしょうか?」「保育園!」「そんなにませてないわ」「中学生!」「とばしすぎ(笑)」「じゃあ、小4!」「当たり!」・・なんて話しているうちに、学校に着きました。歩いて10分ちょっとのところなので、遠くはなく、それもありがたいことです。


帰りは、ちょっとジョギング的な感じで、走ったり、ちょっと歩いたりして帰ってきました。普段、運動不足になりがちなので、これも一石二鳥!


みーの小学校生活も、残り3ヶ月あまり。そのうちに反抗期が来て、ろくに口もきいてくれなくなるのかもしれません。いろいろなことがずっとは続かないのだと、しみじみと思うこの頃です。


思うようにならないことも色々とありますが、それはそれで、ひとつの貴重な経験として、共に、「災い転じて福と成すのだ!」という気持ちで、いきましょう!どんな時間も、もう二度とない時間だから、味わって、楽しんで、前向きに向き合っていけたらいいなと思います^^☆




先日、娘(小6)の授業参観に行ってきました。


その日は、スマホの使い方についての授業!こんなことも学校で教えてくれるんだ!と目からうろこ。


題材は、ある一つのメール。その文面は友達から送られて来たもので、こんな内容でした。


「昨日、うちのおかあさん、スマホと間違えてテレビのリモコンを会社に持って行っちゃったんだよ!」


というもの。


それに対して、もう一人が、「おもしろいね」って答えたというもの。



まず、この「おもしろいね」が、どういう意味なのか。それを考えるところからでした。


「おもしろいね」の意味として


① とってもおもしろい!

② 少しおもしろい

③ ちょっといじわるさを含む(嘲笑する感じ)


どれだと思いますか、っていう。


まず、ここで少し分かれますね。

②が多かったですが、①と③もいました。



次に、スタンプが出てきます。



stump



上の図のようなものです。このうちの、どれを送ったと思いますか?っていう。

(自分ならどれを送りますか、でもいいと思います)


その後、この5種類のスタンプを、上記の①②③の感情の、どれを表していると思うか、というのに当てはめていきます。


全員がそれぞれに記入し終わってから、特に先生が例としてあげたのは、3と4のスタンプでした。確かに、受け取る人にとっては、または、その会話の内容によっては、ちょっと微妙な印象を与えるかも・・というのはありますね・・。


具体的な数字は忘れてしまいましたが、3のスタンプについては、①「とってもおもしろい!」が多く、②少しおもしろいが「数人」、③の「ちょっといじわるさを含む」が②よりも多かったように思います。たぶんそれは、おそらくですが、きつねのような細い目と、相手に向かって指をさしているという印象から、③「いじわるを含む」と答える子もいたのではないかと思います。


4のスタンプについては、①「とってもおもしろい!」が何人かで②よりも多く、②「少しおもしろい」がわずかですが数人、③の「ちょっといじわるさを含む」が一番多かったように思います。


ここで問題になるのは、送信者と受信者の、感覚のズレがあった場合です。たとえば、「とてもおもしろいね!」という意味で送った③のスタンプに対して、相手が「なんだかいじわるだな・・」と感じることもあるわけです。


なるほどな~って思いました。



私は個人的にはスタンプは使わない主義です。個人的なメールの時には簡単な絵文字は使いますが、そんなに多種多様には使わないほうだと思います。そしてこういう文章を書くときには、わずかに顔文字は使いますが、出来るだけ使わないようにしています。


たぶんこれは、私が好きでいつも見ている「ほぼ日イトイ新聞」の糸井重里さんの影響もあると思います。糸井さんは、例えば「おいしい」⇒「おいちい」とか、そうやって言葉の中でふざけたりすることは多々あるのですが、元々がコピーライターで言葉を扱う仕事をなさってきたせいか、「言葉、文字、という中で勝負する。絵文字には逃げない」というような美学を持っているんですね。そういう感じに憧れもあって。



少し話がそれましたが、どうして私はスタンプを使わないか。


それは、ひとつの理由としては、自分の気持ちそのものを表すものではないからです。


「いいね」、にしても、「かなしいね」にしても、絵がいくつかあったとしても、より適切なものがあったとしても、自分の気持ちとはどうしてもズレが出ます。ここまでの「ありがとう」じゃないんだよなあ、とか、そこまで「かなしいね」っていう感じでもないんだけどな・・、とか。この微妙な感じはどうしても表しきれません。その微妙な感じを追おうとすると、いろいろとスタンプを選ぶのが面倒になる。(あ、この「面倒さ」というのも、私がスタンプを使わない理由です)


今まで、なんとなく言語化されないで自分の中にあった、このスタンプに関しての微妙な気持ち、というか、感覚。そこに含まれている問題を、綺麗に可視化して見せてくれた授業でした。


博史先生にこの話をしたら、「僕だったら、その「スマホとリモコンを間違えた」というメールに、どんな返信をするか、というのを、それぞれに考えてもらって、前にそれを貼り出して、みんなでそれを眺める授業をしたい」と言ったので、それもいいなあ!と思いました。



いったんここで「活字」の話をしましょう。


例えば、「ありがとう」を伝える時。そこにどんな想いがこもっているか。店員さんの「ありがとうございます」と、好きな女の子からチョコレートをもらったときの「ありがとう」は、天と地ほどの開きがあるでしょう。でも、それは態度ならわかりやすいものだけれど、文字では伝わりにくい。それでも直筆の文字なら、なんとなく伝わってくるものもあるけれど、活字ではとても伝わりにくい。


だから、「ありがとう」の後に、何かを書き足して、それを補足することがあります。

「ありがとう。本当にありがとう。」とか「ありがとう。少し気持ちが軽くなりました。」とか、あえて、軽くする感じで、「ありがとね~」とか「ありがとっ!」とか。


自分の気持ちを、完璧に言葉に乗せることは出来ません。そして、まあまあうまくそれが乗ったとしても、相手がそれをどう受け取ってくれるかはわかりません。そういう、ちょっとした緊張感の中で、文字のやり取り、特に活字のやりとりはなされるものなのだと思います、本来は。


だから、昔、図書館で借りた「心のチキンスープ」という本の中で、「書いたものを一度、必ず見直せば、人生の何割かの問題は防げる」というような話を読んだのですが、それを私は出来る限り実行しています。簡単なメールでも、送信する前に見直すことにしています。(昔、ちょっとした表現の行き違いで、詳しくは忘れてしまいましたが、たぶん少し雑な表現をしたのだと思います)友達に嫌な思いをさせてしまい、後からたくさん謝ったり弁解しなくてはならなくて、あの1通のメールの言葉を、もう少し丁寧に選べばよかったと後悔したことがあります。


けれど、メールに比べて、ラインはどうしても文章が短くなりがちです。ほとんど反射神経的に、ぽんぽんとやりとりすることが求められるように思います。その中のスタンプですから、そして、その中には、実は、今回の授業でやったような危うさが秘められているわけですから、大変です。なんだか、私の感じている、活字でやり取りする時の「伝わるかな?」という緊張感に似たようなものもあると同時に、それとは違う緊張感もあるような気もします。




ともかくも。何かを得るときに、何かを失うというのはよくある話です。それも、失っていると言う自覚の無いままに、失っているということがあります。


スタンプの場合、活字よりも表現の手軽さを得た分、欠けているのは、「自分の言葉で言葉を紡ぐ」という「表現力」です。それから、「微妙に自分の気持ちとは違うスタンプに自分の気持ちを代弁させてしまう」という「感性」です。


「それでお互いに楽しくやり取りしてるんだからいいじゃん!」って言われれば、そうなのかもと思います。別にそこまでとりたてて、ややこしいことを言わなくてもいいのかもしれません。


ただ、延々と短文でやりとりされるその「ライン」が、はたしてそのやり取りが、本当にお互いにしたいことなのか。その時間が楽しくて充実したものなのか。それとも、面倒だと思いながら、なんとなく寂しいからとか、なんとなくどっちから終わっていいか分からないから、という理由で、だらだらとつながっているなら、それはちょっと考えてみたほうがいいのではと思います。そんなことに時間を無駄に費やすほど、人生って長くないです。(私は人生の半分を過ぎてしまったので、余計にそう感じます)


手紙で、もしくは長いメールで、一言一言、言葉をひねり出しながら、消したり書き直したりしながら、自分の気持ちを言葉に込めようとしていた昔を、懐かしく感じます。


懐古趣味って言われそうですけど、通信手段・伝達手段は新しいとか古いとかの問題ではなく、ただ手段が増えているだけのことだと思います。その中で、自分が好きなもの、心地よいもの、自分が上手く使いこなせるものを選べばいい。そしてそれは「コミニケーション」の手段なのだから、その「コミニケーション」自体が、ただの時間つぶしではなく、充実したものであってほしい。


今はまだ、スマホとかパソコンっていうものを、人間が上手く使っているというよりは、それらに人間が振り回されている感じがします。



思いのほか、いろいろなことを考えさせられた授業参観でした。


そして、こうやって書くことで、さらに深いところまで考えることが出来ました。読んでくださる皆さんがいてくださるので、書く張り合いもあります。


いつもありがとうございます。


よかった、という記事には、右横のハートをぽちっとしてくださると、さらに嬉しさ倍増です。よろしくお願いいたします^^☆



不登校


11月3日のブログに、

「学校に行くの?行かないの?」

という記事を載せてみましたが。

その続編です。


「行くの?行かないの?」という時間が

何時間も続くのは、なかなか親子共々に消耗します。


子供の方としても、動きこそしませんが、

「行かなくちゃ」ってアクセルを踏みながら、

同時に「行きたくない!」って、

全力でブレーキを踏んでいる状態なので。

動いてはいませんし、寝てるだけかもしれませんが、

エネルギー的には相当、消耗するようです。


なので、その子にもよるかもしれませんし、

時と場合によるかもしれませんが、

一つの手としてありだと思うのが、

「押してダメなら、引いてみる」

という手です。


具体的には、適当なところで

(私の場合は行かないと言い出して1時間前後位)

「じゃあ、今日は家で勉強しようか」と切り替える。


うちの場合は、そう言うと「じゃあ、そうする」と

ほぼ100%に近い感じで言います。

まだあまり消耗していないので、

「じゃあ、しっかり一日勉強するんだぞ!」と言えます。


時間割も多少は参考にしつつ、

今まで間違えていたテストとか、

いつもなかなか教えられない

家事のあれこれのこととか、

生きていくのに必要なものとか、

後は自分でこれから知ってるといいかなと

思うようなことを課題に出したりします。

その日に学校で進んでいるはずの項目も、

今はYouTubeとかで学習できるので

とても便利です!


前にも書いた気がしますが、

うちでは基本、


「基本的に、学校は行くものです」

「学校に行けなくても、子供は勉強をするものです」

「勉強が出来ないのは病気の時です」


という、この3つのどれかに属するということで

考えています。



ちなみに。


よく親御さんで勘違いされるのは


「義務教育だから、子供は学校に行く義務があるの!」という。


これは、実は違うんですね。


義務があるのは、子供のほうではなくて

親のほうにあるんですよね。


親に、「子供に教育を受けさせる義務」があるんです。


子供は、「教育を受ける権利」があるんです。


そうすると、「そんな権利いらないし~」という

子供も、出てくる出てくる~っていうことになるのは

目に見えてますけど。


じゃあ、「権利を放棄」して、本当にいいの?

っていうことにもなるですよね。


よく、テレビのCMとかで、

「発展途上国の国の子供(特に女の子)たちにも教育を」って

やってるじゃないですか。


「教育が、子供たちの未来を開く」って。


あれは、発展途上国の話だけではないと思います。

万国共通だと思います。


要するに、知識とか、人間関係とか、ストレス耐性とか、

集団で生きること、その他なんだかんだって、

学校に行って帰ってくることで、

身につくことって、実は沢山あるんだと思います。


学校に行けないからって死ぬことはないし、

生きるか死ぬかっていう思いまでして行くところでもない。


けれどやはり。

「教育が、子供たちの未来を開く」

これは、本当だと思うんです。


そしたら、どうやって教育を子供たちに与えたらいいか。

もしくは、子供たち自らが、それを取りにいけるか。


自分で自分の未来を切り開く力を、手に入れる。


それこそが、「教育」の核なんだと思います。


そして、自分自身も、そこを改めて見つめなおすために

時々こんな思いをしているのだろうか、とも思います。



不登校でお悩みの、保護者の方。

大学生なら当事者の方もいらっしゃるのかな?


よかったらいつでもご相談下さい。

経済的に厳しい場合でも、今なら二人鑑定の

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そちらもご利用できます。


お気軽に使ってくださいね^^☆




お子さんの不登校に悩まれている保護者の方には、


あるあるの話かと思います。


子供が不登校


学校に行くのか、行かないのか、はっきりしないまま


時間が過ぎていく、というパターンです。


「嫌だ!今日は絶対無理だ!」と泣きわめいたりされれば諦めもつく。


「じゃあ、今日は学校には行かないで家で勉強しようか」と、


切り替えることも出来る。


しかし、そこまでではない、という


どっちともつかないパターンです。


本人は、「行きたくないけど、行かなくちゃ」と思っている。


親も、「行けるならば行ってほしい」と思っている。


本人も、歯磨きをしたり、髪の毛をとかしたり、


ゆっくりではあるけれども、何とか準備をしている。


例えば、本人の割と好きな科目があって、


その時間に間に合うかどうか、という時間になってくる。


親も、仕事があったり、家事があったり、


ずっと子供に構ってばかりいるわけにもいかないということもあり、


給食の方が自分の家でご飯を食べるより栄養バランスもいいし、


できれば学校に行ってくれないかなと思う。


本人も、少しはその気になって支度も進めるのだけれど、


「おなかが痛い」とか「気持ちが悪い」とか言って


中断してしまう。


かといって「行きたくない」と泣き出すほどでもない。


こういう状態が何時間も続くのは、


親子共に、かなりつらい状態だと思います。



現状、私の見方としては、


こういう場合は、こうするべき!という明確な持って行き方が


あるわけではありません。



そのあたりは、確定的な一つの答えがあるわけではなく、


個別にかなり違うのではないかと思います。


その子の性格によっても違うでしょうし、


不登校になりかけなのか、継続しているのか、


良くなって来ているのか、などや


いじめなのか、本人の気分なのか、体調なのか、


学校や先生の対応はどうなのか、など


いろいろな要因によって、変わる部分もあると思うので、


「その子次第、その時次第」ということに


実際にはなるのかなと思います。


それって、一言で言うけど、大変なことなんですよね。


その時、その時の様子を見ながら、


今日はどうするべきか、じっと観察していかなくてはならない。



長男が学校に行きたくないといっていた時にも、


私はその時の様子を見て、


「休んでもいいよ」とか「行きなさい」とか


答えを変えていました。


それは私の気分によるものではなく、


「ああ、何かがもう限界なんだな」と感じるときには


「休んでいいよ」と言い、


休み慣れしてしまって、今日も休もう、みたいな時には


「行きなさい」と言いました。


一つ一つの判断が、正しかったのかどうかは今でも分かりません。


たぶん、誰にもわからないのかもしれません。


ただ、一番近くにいて、一番観察している保護者が、


一番正解に近い感覚を持てるのではないかと思います。



私も、未だに時々、我が子でこの悩みを持つことがあります。



「今日は、行くの?行かないの?」


これに何時間も付き合うのは、かなり疲れます。


いっそのこと、早い段階で「行かない!」って


言ってくれたらすっきりするのに、とすら思ったり(苦笑)。


でも、本人の中に「頑張らなくちゃ」と思う気持ちが見えるから


こちらも「頑張れ」って思ってしまう。


で、行ったら行ったで、それなりに充実して帰ってくる。


家にいたら、(特に私が仕事で出なくてはいけない場合)


ちゃんと一人で勉強なんてできないんじゃないかなと思うと


一日、無駄に過ごさせてしまう気がする。


がっつり寝たり、ゆっくりして充電する日も


時には必要かもしれないけど、


それはできるだけ土日にしてもらいたいし、


それが平日に出来るのが当たり前だと思ってほしくはない。



親の葛藤は、他にも、いろいろなものが有る場合もあります。


「小さいころの育て方が悪かったのだろうか」


「私の日頃の言動が悪いのだろうか」


「(離婚や引越し等・親の都合で)

環境が変わったのが良くなかったのだろうか」



どうしても原因を探してしまうものだし、


その矛先が自分に向かってしまうこともあると思います。



でも、原因って、実は本人にもお医者さんにも


はっきりわからないことも多いそうです。



だから。


どうかお母さん(もしくは、お父さん・保護者の方)、


自分を責めないで。


原因をいつまでも探さないで。


人間は完璧ではないから、失敗をすることもあります。


でも、いつまでも過去を見ていても何も変わりません。



大切なことは、「今、なにができるか」。


今、子供を見つめて、その思いを聴いて、


一緒に考え、今日できそうな事をする。


日替わりだったりもします。疲れると思います。


けれど、「なんにもしてないのに、どうしてこんなに疲れちゃうんだろう」


なんて、自分を責めないで。



特別支援学級では、1クラス8人が上限になっていますが、


そんなに人数がいない場合もあります。


次男が中学校の時には、1クラスが2人だったり、3人だったりで、


そこに介助の先生も付いたので、先生2人に、生徒が2~3人でした。


気持ちが乱れて、教室の外に出てしまうような生徒には、


きっと先生が付いてきてくれて、その思いを聴いてくれ、


なだめてくれたりしたのだと思います。


一人の生徒に、そうやって丁寧につきあってくださる、


それがその先生の「仕事」だったわけです。



不登校(気味)のお子さんに付き合っているお母さん(や保護者の方)は


その「仕事」をしているわけです。


なんにもしてないわけじゃない。


子供の気持ちを聴いて付き合う、という、結構な重労働をしているんです。


今、「特別支援」という例を出しましたが、


不登校(気味)の子も、ある意味では


「特別な支援、を必要とする子達」なのです。



不登校(気味)という時期は、


ある意味で、ちょっと学校では学びきれない「何か」を


親子共々に考えたり感じたりできる時間なのかもしれないと


思っています。



また自分のことも含めて、記事にしていきます。



最後に繰り返しますが、


おかあさん、自分のことを責めないでくださいね。


見かけはどうあっても、葛藤していても、変化がなくても、


親子共々、頑張ってる最中だと思います。


アゲハのさなぎだって、じっとしていて、


何も動きがないように見えて、


そのさなぎの中では、青虫が蝶になるという、


大変身を遂げているんですからね^^☆



おかあさんも、気分転換などをしたり、


ほっとする時間も大切にしてくださいね・・☆



では、また時々、不登校の話題等も出していきますので


よろしくお願いします^^☆




そうして、どんどんヨーヨーの腕をあげていったYちゃんでしたが、


中学2年生の頃だったか、法事で会った時には


小学生の頃の無邪気さは全くなくなっていて、


前髪を凄く長く伸ばして、人との関わりを断っているよう


見えました。



これはYちゃんのお母さんから聞いたのですが、


Yちゃんは「場面かん黙」というのを持っているそうです。


これは、いつもは普通にしゃべれるのに、


ある特定の場面でのみしゃべれなくなる、というものです。


Yちゃんは、どうしても、


「おはようございます」「こんにちは」「ごめんなさい」などの


人前での挨拶になると、言葉が出なくなってしまうとのことでした。



Yちゃんの才能に期待していたお母さんとしては、


例えば、Yちゃんが「ヨーヨー芸人」になるとか


「ヨーヨー教室」をやるとか


「競技ヨーヨー」で賞を取ってくるとか


そんなことも夢見ていたようでした。


けれど、どの場所に行っても、「あいさつ」は大切。


ヨーヨーは凄く上手い。頭だって悪くない。


顔だって可愛い。ふつうにしゃべることもできる。


それなのに「こんにちは」が、きちんと言えない娘に、


お母さんはイライラしている部分もあったようでした。



あれから3年ほどたちますが、


そのYちゃんやお母さんと、しばらく連絡が取れないのだと


伯母から聞きました。


伯母が心配して、隣町のYちゃんの家を訪ねてみたところ、


庭や玄関に雑草が生えていて、


人が住んでいないような雰囲気だったそうです。


空き家


結局そのまま音沙汰が無くて、


どうしているのか分からないそうなのですが、


ちゃんと幸せに暮らしているのだろうかと


なんとなく心配になりました。




発達障害の子は、時に、人には真似できないような


凄い才能を見せることがあります。


しかし、それがあまりにも奇妙だったり、


あまりにも狭すぎる分野だったりすると、


社会的には何の役にも立たないようなこともあります



例えば、奇妙な、という例で言えば、


トイレの便器の形の種類を覚えるとか。


狭すぎる、という例で言えば、


ある特定のゲームの攻略だけがうまい、とか。



Yちゃんのように、もっと有用な特技であっても、


別の苦手さで、それを生かせないようなことがあったり


場面かん黙も、だんだんと緩和されていったりするので、


焦らないでじっくり取り組めば良いかと思うんですけどね。




凸凹の大きい子って、光る部分と、欠けている部分の


落差が大きいだけに、育てる方も大変さがあると思います。


(うちにもそういうタイプの子がいますし


自分自身もそういう人間なので・・)



でもそこは、焦らず、あきらめず、


そして、何よりも、「本人の思い・願い」を大切に


育てていくことが大事なのかなと


このことを通して、改めて思ったのでした。



発達障害・発達凸凹などについて


何か少しでも参考になれば幸いです。





しばらく、発達障がい周辺の記事を書いていなかったので、久しぶりに。



これは、私の周囲であった実話ですが、


プライバシーに触れないように、


設定を変えてお話します。



今回、タイトルに「ギフテッド」という言葉を使っていますが、


記事を書くために、改めて確認したところ、


ギフテッドには二つのタイプがあるそうです。


一つは、芦田愛菜ちゃんみたいに、頭も良いし、才能もあるし、


みたいな、「天は二物を与えず」って嘘じゃん!みたいな。


天は二物も三物も与えてるでしょ!」っていうタイプ。


もうひとつは、ものすごく欠けている部分と、


ものすごくデキる部分が同居しているタイプ。


発達障害系ですね。


今回は、この後者の「発達障害系」ギフテッドの話です。





私の遠縁の親戚に、


次男より1つ上のYちゃんという女の子がいます。


具体的にはお伝えしませんが、


曽祖父母の法事で、会うか会わないか、


という程度の遠さです。


だから、たまたま会えたときに話をしたり、


また、親戚筋からの噂で聞く話で、


詳細が分からない部分があるのですが。



ともかく。


Yちゃんは、中学校では支援学級に通っていたそうです。


支援学級には、知的学級と情緒学級というのがあります。


うちの次男は知的学級ですが、


Yちゃんは情緒学級だったそうです。


知的障がいというのは、一般的にもわかりやすいと思います。


情緒の方は、ちょっとわかりにくいかもしれません。


(ちなみに、くっきりと知的と情緒で分けられるわけではなく、

両方持っている場合も多々あります。次男も小学校入学時には

どちらのクラスでもOKですと言われました。)


一般的には、知的発達に遅れはないが、

子どもの特性・困り事に対し、

個別に適した環境で支援や指導を受ける教室のことです。

困りごとの一例としては、対人関係での困難・言葉の遅れ・

感覚過敏・選択性かん黙・不登校・多動などが挙げられます。


と説明されています。


もう少し具体的に言えば、


「大勢の子がいる教室だと、

凄く圧迫感を感じてつらい」とか


「やる気の波がすごくて100か0」


みたいな感じですかね。


その他、いろいろなパターンがあると思います。


Yちゃんは、とても過敏な子で、


大きな音とか、友達にちょっと肩を叩かれたりなどの


接触にも、疲れてしまうようなタイプの子でした。


それで、知的には問題は無かったのですが、


情緒学級にいくことになったそうです。




そんなYちゃんには特技がありました。


Yちゃんは、「スケバン刑事」の大ファンでした。


どうしてそんな若い子が?と思われるでしょうが、


Yちゃんのお母さんがスケバン刑事が大好きで、


Yちゃんの小さい時からビデオなどを見ていたので、


Yちゃんも大好きになったようでした。


それで、Yちゃんの特技というのは・・


なんでしょうか・・?


40代以上の人は分かる方もいるかもしれませんが・・


そうです。


スケバン刑事といえば・・!



「ヨーヨー」です!


スケバン刑事のヨーヨー



スケバン刑事のまねから始まり、


毎日毎日ヨーヨーにさわっていたので、


どんどん上手になったようです。


難しい技も色々覚えて、


競技用のヨーヨーなんかも持っていました。


ちょっとですが、テレビに出たこともありました。


お母さんも、彼女の才能に期待して、


「この特技を生かしてこの子が食べられるようになれば・・」


と思ったりもしていたようでした。


お母さん自らが、動画などからいろいろ情報を得て、


娘に教えているのだと聞きました。


(自分ができることと、教えられるのは、別の才能みたいです・・)



そうして、お母さんと二人三脚で


Yちゃんはヨーヨーの腕を上げていきました。



そこまではよかったのですが・・・


長くなるので、この続きは次回にします。


先日の、「勉強ってなんのためにするの?」の続きです。


私は、大学的な勉強を、もっと中学、高校まで


下ろしてきたほうが良いんじゃないかと思っています。



先日、ある市議会議員さん(友人)にその話をしたら、


「確かにそれはありますよね。


僕の友達が「総合高校」っていうところに行ったんです。


そこでは大学みたいに、自分で科目を選べるんですけど、


そこで普通高校では取れない科目を選んで、


結局、今の仕事にそれが結びついてますよ。」


という話をしてくれました。



先日、生活していく中で


「中学校以上の勉強は使わない!」という


結構荒っぽいことを言ってしまいましたが。


もう少していねいにこのことを語るなら、


本当はそうではありません。


例えば、建築士になり、建物の強度、


なんていう話になれば。


出てきますよ。


先日、こんなの使うのか?って言った、


数学の√(ルート)の計算。


それと、「一生使わんだろ!」と何度思ったか知れない、


高校数学の、sin(サイン)・cos(コサイン)・tan(タンジェント)。


使う人はちゃんと使うんですよね、


電気工事士試験の必須項目だって。


「sin(サイン)は正弦波交流の計算に、cos(コサイン)は有効電力を求めるとき、tan(タンジェント)は交流回路の位相角を求めるときなどに使用されています。特に電源として正弦波交流を扱う問題が多い交流回路の計算においては、三角関数が必須」


だって。


なんのことやら、私には全く分かりませんが、


一部の人には確かに必要みたいです。


(こういうことを、私が中学のとき、


「なんのために勉強するの?」って聞いたときに、


先生や親に教えてもらいたかった~!)



そんな風に、きっと私の一生ではほとんど使われることのない、


中学と高校で詰め込まれた(そして今やほとんど忘れた気がする)


膨大な知識の山は、きっと、「何かに」なるのには


必要なものだったのではないかと思います。


電気工事士、建築士、プログラマー、研究者、弁護士、公務員、


その他、私が知らないようなお仕事まで含めての


無数の「何か」


それになれる「可能性」を含むもの


それを、学んでいたんだろうと思います。



で。


それを、そのことを、みなさんはどうとらえますか?



私は、個人的には。


ものすごくはっきり言えば。


あえて、ちょっと極端な言い方をすれば。


「そんなものいらなかった」と思う。



建築士や、電気工事士や、もしくは


数学者や研究者や、それに類する仕事に、


なれるかもしれない可能性を確保しておくために


あんなに大嫌いな数学を、何年も苦しみながら


勉強したんだとしたら。


そんな「可能性」、さっさと捨ててしまいたかったと思う。



そんな話を、先日知人にしたら、その方が、


「自分の子供は、英語が嫌いで、高校は理数系を選んだんです。


英語の時間はなくて、数学や理科のいろいろな科目を勉強してました。


でも、いろいろあって、最終的に今の仕事としては、空港に勤めていて。


必要になったので、それからちゃんと英語を学んだんですよ」って。



そうそう、私が言いたかったのは、それよ!って。



赤ちゃんの時には、たいがい、


「この子は足が強いからサッカー選手になるかな~」とか


「かわいいからアイドルかな~」なんて


好きなこと言ってるじゃないですか。


ほとんどもう、無限大の可能性の塊みたいなものです。



だけど、小学校くらいになってくると、


もうそうはいかなくなってくる。


まだまだかなりの高い確率で、


その後の変更・転向は可能ではあるものの。


気性が、激しいか、穏やかか。


人が好きか、嫌いか、動物が好きか、嫌いか。


運動が好きか、勉強が好きか、


おおらかなのか、きちょうめんなのか・・


おおわくの、「その子らしさ」というのが


どうしても出てきます。



中学卒業の頃には、もっとはっきりと、


その子らしさというのは、かちっと形を成してきます。


だから私は、中学校の卒業式で、来賓の人とかが、


「君たちの無限の可能性を」


とかいう言葉をきくと、正直、やだな、って思う。


中学卒業時、もうある程度の可能性は削られてます、


正直、無限では、全然無いです。


そこから、今まで卓球をやったことがない子が、


オリンピックの卓球の選手になれるということはまずないです。


(スポーツの中でも、卓球ってそういう類のものらしいです)


私が、中3の時点に戻ったとしても、


そこから「数学の先生」になる確率は、限りなく低かったと思います。


博史先生が「公務員」になる確率も低かったでしょうね・・。



私は、可能性、というのは、


どこまでも無限に広がっていくものではないと感じています。



今のところの、私のイメージの中で言えば。


小学校までは、あらゆる可能性を伸ばしていく時期。


中学時代は、それを絞り込んでいく時期。


(部活とかでも、だいたいはあれこれやらないで


ひとつのことを続けていかせることが多いですよね)


絞り込んだ上で、高校を決めて。


高校は・・・


自分の高校時代が暗黒すぎて、


あんまりリアルに想像できないのですが、


可能性を伸ばしたり、絞ったりする時期なのかな?


大学時代もそんな感じでしょうか。


それは、人によってもその時期は違うかもしれませんが。



つまり、私の一番言いたいことは。


可能性は、捨てなければ、ものにならない、ということです。


削り落としていかなくてはダメだ、ということです。



例えば、ごく簡単に言えば、


文型、理系、とあった場合に、


どちらかを捨てて、どちらかに集中するから


ものになっていくわけです。


お医者さんって、実は何科の看板を掲げてもいいって


聞いたことあるんですけど、(確か麻酔科以外)


それだって一人で「なんでも」って、ないじゃないですか。


自分は「産婦人科」だ、とか


「眼科」「皮膚科」「心療内科」とか


せいぜい複数でも「内科・胃腸科・小児科」くらいでしょう。


そうやって、「可能性をバサバサ切り捨てていく」からこそ


残った何かにエネルギーを注げて、


ものになるんだと思います。


日本の教育は、その「可能性を切り捨てる」ということを


させるのが、遅すぎるのではないかと感じています。


要するに、逆に言えば、「好きなことに特化して集中して学ぶ」


という事をするほうが、よっぽど良いと思うんですよね。


そこで切り捨ててしまったものでも、


いくらでも、あとで拾いにいけますからね、


さっきの空港勤めの方のように。



近年、私たちの地域では、高校に職業コースが増えてきて、


それは良いなあと思ってみています。


昨日も小6の娘に、「家庭科(お裁縫とか保育とか)をいっぱい


授業でやる高校あるよ~」と言ったら、


「それいいなあ~!いきたいなあ」と言ってました。



がっちり、教育の話になってしまいましたが。



お子さんのおられない方でも、


今日の話は「可能性」の話です。



可能性だけたくさんあって、


どれも選べてない、っていうことはないでしょうか。



もしくは、ある可能性を削る場面にいらっしゃる方、


逆に、それによって得られるものがあるのでは?


広がる可能性があるのでは?


というお話でもありました。


ものはとらえかたです!


思い方です・・・^^☆



情熱の(笑)教育論は、


まだ続きます。


明日はどうだか分かりませんが、


また語ってまいりますので、


楽しみに読んでいただけましたら嬉しいです^^☆





タイトルにもしましたが。


「勉強はなんのためにするの?」


これは、子供全員とは言わないまでも、


かなり多くの子供、学生達が、


一度は持つ疑問なのではないでしょうか。



私は中学3年生の時に、この大きな疑問にぶち当たりました。


(受験生なのに!)


で、国語の授業でだったか、作文で


「何のために勉強をするのか」というのを書きました。


それは、クラスの中で選ばれて、


学校内の弁論大会に出ることになりました。


でも・・・


それが終わっても、どの先生も、誰も、


私のその問いに答えてくれた人はいませんでした。


「√(ルート)とか、古文の「~けり」とか、


そんなん日常で全く使わないじゃん!


なんで全く使わないものを勉強しなくてはいけないの?」


このシンプルな問いは、


それから何十年も、私の心の片隅に棲み続けていました。


その教育への恨み?を晴らすべく、


2018年あたりには、自らの主催で、


先生や保護者、議員さん等も集めて、


「教育カフェ ~2020年の教育改革を考える~」


などという会を開いたほどです。


(このことについては、話すと長くなるのでまた別の機会に!)



私の母は、いわゆる「勉強せい、勉強せい」という


わかりやすい「教育ママ」タイプでしたが、


私の場合は、それの反動なのか、


別のタイプの「教育とはそもそもなんぞや」というタイプの


教育ママになったのかもしれません。



で、歴史は繰り返すわけですよ。


小学6年生の娘が聞いてくるわけですよ。


「勉強ってなんのためにするの?」って。


「そりゃあ、大人になって使うのよ、いろいろ」


「でもさー、分数の割り算とか使わなくない?」


「・・確かに。ん~、頭の体操じゃん?」


とか。


自分でもいまいち納得いかないことを言いながら。


でも、基本的に、子供には出来るだけ正直に、


できるだけ「大人の建前」とかで話さないことを


心がけているので。


また、それについて、考えるわけですよ。



で。


先日、その答えが、自分なりにすっきりする形で


出たんですよ!


何で勉強しなくてはならないか。


(昨日のブログにも書きましたが、


小学校(特に5年生くらいまで)の勉強は、


リアルに日常で生きていくために役に立つからです。)


特に、中学校以降、なんの役に立つのか分からない勉強を


さんざんさせられるのはなぜなのか。


ついに!


全く私的な意見ですけど!


自分なりに、スッキリする答えが出たんです!



それは。


「昔ながらの枠の中で競わされる、根性比べ」です。


この「根性比べ」に勝ち残った者が、


有能だと見なされて、有名企業に就職できる。


もしくは社会で一目おかれる。


それだけ。



もう少し詳しく解説します。


「昔ながらの枠」っていうのは


まあいわゆる「国語・数学・理科・社会・英語」とかですね。


ほんとはこれ、何でも良いと思うんですよ。


中学生以上のイメージで言えばね。


古文の活用とか、


微分積分とか、


物理の方程式とか、


古代ローマの王の名前とか、


そんなの使わないじゃないですか、ほんと。


それよりも、


ぱっと見でだいたいどういう人なのか見抜けるとか、


電話で感じよく綺麗な言葉遣いができるとか、


冷蔵庫にある物で料理が作れるとか、


社内で微妙な空気感のAさんとBさんの仲を取り持つとか、


そういう事のほうが、100倍も生きていくうえでは


役に立つわけです。


だったら、そういうものを教科にすればいいと思うんですが、


そんなの教科にしにくいし


(やればできるのかもしれないけど、やろうと思わないのでしょう)


どうやって点数をつけて良いかも難しいし


まあ、無難に「人類の叡智」であるところの、


基本的な「そういう科目」をやらせとけばいいだろう、と。


そういうことだろうと思っています。


例えば、「人類の叡智」という事で言えば、


哲学とか、宗教とか、心理学とかでもいいんじゃないか、


むしろその方が生きていく力になるのではないかと


思うのですが、まあ点数が付けにくいから、


あんまり・・なんでしょうね。



それで、わかりやすく、点数のつけやすい


「国語・数学・理科・社会・英語」っていう


コースの枠組みを作って、


(その学んだこと自体が、

その子の人生に役に立つかどうかは全く関係なく!)


その中で、「よーい、ドン!」ってやって、


どんだけ頭に詰め込めるか、どんだけ頭を使えるか、


どんだけそのことに対して集中して頑張れるか、


ってことを、計るんです。


要するに、地頭の良さとか、やるべき事に対して頑張れるか、とか。


そうして、「根性比べ」が行われて、


中3とか高3とかで、振り分けられる。


有名大学に行った子は、「根性比べ」に勝った「根性のある子」


として、社会に認められやすい、と。


だから、その根性比べは、すごくぶっちゃけて言うと、


中身は何だって構わないんだと思います。


だったら、もっと、例えばさっき上げなかったものとしては


「経済」とか、生きていくうえで役に立つものを


教えてくれればいいと思うのに


そうはなかなかならない。


10代の時には、いくらでも覚えられるのに、


なんかもったいないよな~って思います。



このことについてもアイディアはあるのですが、


長くなるので、また次回に^^☆




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