前回の続きです。


吉本ばななさんの本、「おとなになるってどんなこと?」


を読んで、私が印象に残っている部分、という話でした。



それは、


「可能性は、広げておく」


という話でした。



当たり前のようですが、実は、私的には当たり前ではなく。



この部分が、印象に残ったと言うのは、


珍しく、私としては、自分の考えと少し違ったからなのです。



常連さんはご存知かと思いますが、


私、なかなかの教育マニアでして。



いわゆる「教育ママ」→「勉強しなさい!!」


っていうのとはまた違って。


っていうか、そもそも、そういう傾向の母に育てられたため、


一周回って、


「教育とはいったい何ぞや」


っていうことから考えるという


「教育マニア」になった次第です(笑)。



で、そういう私から見ると、


「教育は子供の可能性を広げるもの」っていう


今の教育は、「広げすぎだろ!」と思うわけです。



例えば、小中学校で、古文をやる、関数をやる、


火山や岩の名前や地層にについて学ぶ。


歴史の年号を覚える。


川の名前や県庁所在地を覚える。


こんなことが、私達の日常で、


どれだけ役に立っているでしょうか?


使います?


日常で関数とか。


二次方程式とか。


円の面積の出し方とかでさえ、


1回も必要になって使ったことないですよ?


(数学が嫌いだったので数学攻め(笑))



いや、後で知ったんですが、


電気関係の方とか、建築とか、


かなりそういう難しい計算を使うんだそうです。


使う方もいるんですね・・。


そういう道に進む人もいるから、


幅広くみんなでやっておくんだなとは思いますが。



でも、アレになる可能性もあるから、


コレになる可能性もあるから、っていうので、


ほとんど、なる可能性のないもの


(私だったら数学教師とか、高度な数学関係)まで


無駄にやらされることの苦痛で


学校に行くのが嫌になってる子って


もう、むちゃくちゃいるんじゃないかと思うんです。


(わたしもそうでした・・)



だったら、そういう


「無駄に可能性を広げること」ばかりやることはやめて、


可能性を削ってしまうこと。


「これはあまりに向いてないからやめる」


っていう判断をして、


そのエネルギーを他の学びに向けたほうが


よっぽどいいんじゃないか、っていうのが


基本的な、今の教育を見ていての、私の考えなわけです。


(ちなみに博史先生も同じ様な考えです)



でも、そこからさらにまた半周回って、


吉本さんの本に書かれている感じは、


「あれもこれも、5教科、もしくは9教科、


まんべんなく学んでおいた方が良いよ」


という感じではなくて。



吉本さんご自身のことを引き合いに出して、


「作家をやっていくにあたり、


あまりにも狭い「書く」ということだけに


神経が行っていたら、


書くことのネタとか深さがなくなり


先細りしていくところだった」


というようなことを言っておられました。



だから、いろいろなことを学んだり、


興味を持ったりして、


いくつか自分の中に他のアンテナ(窓?)


のようなものがあったことが、


自分の書くものを豊かにしてくれた、


というようなニュアンスでした。



他に最近読んだ本でも、


少し似たようなことを感じたものがあり、


その方は、ちょっと違う表現をされてましたが、


「人って、大体、1つじゃなくて


いくつか、4~5個くらい、得意なものがある。


それを掛け合わせて仕事に生かしていくといい」


って、書いてあったんですね。


そうすると、その人のオリジナルな感じが出るんだと。



確かに、私の今やっている、このアストロラーベの仕事にしても、


「書く・占う・教育関係・政治関係・読書・聴くのが得意・ひらめき」


そういうことを、フル動員してやってる感じですからね。




だから、まんべんなく、


どれもオール4や5を取れるように学ぶ必要はないものの、


苦手なことはあってもいいけれど、


それが学校の勉強に限らなくても良いけれど、


4~5個くらい、得意なものがあると、


おとなになって生きていくのに


便利なのではないかな、というのが実感です。



だから、学校の教科でも、


好きなものをいくつか見つけて、


それを深く自分で学んでいくようなやり方ができれば


楽しく学校に通えるという意味でも、


よりベターなのではないかと、思ったりしています。




「おとなになるってどんなこと?」


実は、このタイトルは、本からお借りしています。



おとなになるってどんなこと? (ちくまプリマ―新書)



ですね。



学校を休みがちな長女(中1)のために借りたのですが、


結局、長女は読まず、私だけが読みました(笑)。


実に、あるあるのパターンです(笑)。



よかったです。


とても読みやすくて。


共感できるところが、とても多くて。



今回、改めて気付いたんですが、


共感できすぎる本って、何が書いてあったのか


あまり思い出せないんですよね(笑)。



なんか、飲み物でいったら、「常温の水」みたいな感じ。


ジュースとか珈琲とかだと、


甘いとか、香りが良いとか、なんか印象があるじゃないですか。


だけど、「常温の水」って、


あまりにも自分の体内のものと似すぎていて、


違和感が無さ過ぎて、ひっかかるとかもなくて、


すーっと読んでて身体に染みてきて、そうよねーって思って、


後になったら何も覚えてない、という感じ。


2回目にざっと見直したときに、そう思いました。


それで、2回も読んだのに、


結局おぼえてるところってわずか2箇所くらい(笑)。


だからその辺をお話したいと思います。



ああ、その前に!


私って、なんというか、


特にちゃんとした根拠があるわけでもないんですが、


自分の考えに、結構、自信があるんですよ。



あ~でも、全く根拠が無いわけでもなく、


ひとつには、信仰を持っていること。


(特にお勧めはしないのでご安心を!)


宗教って、世間的にはいろいろに思われてると思いますが、


基本的には「人の生きる道」を教えているものだと思っているので。


あとは、本が好きで、いろいろと読んできていること。


そして、そこで疑問に思ったことを、


博史先生とか、周りの人と話し合っていること。


そういうことが、「自分の考えに自信を持てる」根拠に


なっているかなとは思います。



そういう中で、吉本ばななさんの、この本と自分の考えが


非常に似通ったものであったということが、


またひとつ、「自分の考えは間違ってなかったのでは」


という気持ちにさせてくれました。


(とても読みやすかったので、小学校高学年くらいから読めるかと


思いますので、興味があれば、ぜひ読んでみて下さいね!)



話は戻ります。


吉本ばななさんの本で、印象に残ったところ、です。



「おとなになる、ということは、じぶんになる、ということ」


これは、本当にそうだなと思いました。



星読み(星占い)をしていると、余計にそう思います。


星読みには、ホロスコープというものを使うのですが、


・・ホロスコープっていうのは、


要するに、自分が生まれた瞬間に、


惑星たちがどこにあったかという天体の地図のようなものです。


もしご興味あれば、


「ホロスコープ 無料」で検索して頂いて、


生年月日と出生地を入力すると簡単に出てきますので、


調べてみてくださいね。



・・で、星読み(星占い)では、


その、自分の生まれた瞬間のホロスコープに、


自分というものが、種のような状態で、


ギュッと詰まっていると考えます。



だから、不思議なことに、


星読みとか全く知らない方でも、


その人が、その人らしく、力を伸ばし、


人生を力いっぱい生きてこられたんだなという方は、


かなりの割合で、


そのホロスコープの通り、というか、


そのホロスコープに詰まっている可能性を


ひとつひとつ開いてきた方なんだな


ということを感じるのです。



だから、


「おとなになるということは、じぶんになること」


つまり、星読み的に言い直すと、


「おとなになるということは


生まれ持っている、自分だけのホロスコープに近づいていく。


そこに眠っている自分の可能性の種を、


ひとつひとつ開いていく」


そういう感じがするのです。



もう一つ、印象に残った部分があるのですが、


それはちょっとテーマが違うので、


また次回にお伝えしたいと思います。




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お気軽にどうぞ^^☆


(生年月日と出生地をお知らせ下さい。


もし出生時刻もわかるとなお良いです!)




おとなになるって、どんなことなんでしょうか。


改めて考えてみると、なかなか難しいことなような気もします。



それが全てではないけれど、


大人になることの中で、必要になるもののいくつかとしては、


「自立」(自分のことは自分でできること)


「働くという感覚」


ということは、あるかなと思います。



常連の方はご存知かと思いますが、


うちには3人の子供がいます。


長男(21才)フリーター&大工見習い。


次男(高2)特別支援高等学園・園芸コース


長女(中1)五月雨不登校


っていうメンバーです。



次男は、少し自閉っぽく、知的にも遅れがあります。


上と下の子は健常です。



しかし、暮らしぶりを見ていると、


一番次男が安定してるんですよね。



高校まで1時間半かかるので(しかもそのうち1時間は歩き!)、


朝は5時半に起きます。


睡魔と闘いつつ、なんとか自分で朝ごはんのしたく


(といってもパンを焼いて珈琲を入れるだけですが)


をして食べて、身支度をして学校にいきます。


雨でも風でも、行きたくないということはほとんど言いません。



元来、生真面目な性格に加えて、


職業訓練校みたいな学校ですので、


「連絡・報告・相談!」と常に言われ、


「わからないことはすぐにきく!」


「きいたことはしっかりメモに取る!」


などと、細かくご指導頂いて、それが身についています。



先日は、先生に、


「みんなも高校生なんだから、


いろいろと親にやってもらってばかりではいけないよ」


と言われたらしく、


それを素直に、


「なんでも親にやってもらってばかりでは


申し訳ないと思いました。


料理とかも覚えたいと思うので教えて下さい」


と言ってきました。


いや~~~、我が子ながら頭がさがります・・^^;



で、時々、料理をやってみたいということで


台所にも来るようになったのですが。


昨日もきんぴらを作っていたら来たので、


丁度炒めるところだったので、


「やってみる?」と言ったら、


「やってみたい」と言ったので、


私は口だけ出して、手は出さずに見ていました。



「調味料は、さ・し・す・せ・そ、の順番だよー


最初に砂糖と酒だよー」とか


「塩、スプーンにとってごらん、ああ、多いわー」


とか言いながら、本人にほとんど全部、


手を動かしてもらいました。


そして結果、けっこう美味しいきんぴらができました☆



そして、あとでまとめておきたいと思ったらしく、


「最初はなんですか?」


「砂糖と酒でいいんですか?」とか


いろいろと私に、聞き直しながら、


自分でレシピをパソコンに打ち込んで、


プリントアウトしてました。


写真がそれです。



きんぴらの作り方




次男は、もともとの性格が几帳面で真面目ということが


大きいのですが、なにかがとても安定しています。



とはいえ、もちろん、安心できないところもあります。


ゲームに集中しすぎてしまうとか、


人と話す時に適切な言葉がみつからないことがあるとか、


悪い人にだまされやしないかとか、


心配なことがない訳ではないのですが、


何かが、安心なんです。



上記の二つで言えば、


自立・・(自分のことは自分でやるという態度)


は身についてきている。


明日の学校のしたくも自分で忘れ物はほぼなくできるし、


洗濯物もたためるし、


食べた食器を片付けたり、


脱いだ服はきちんとたためる。


そして、もっといろんな事ができた方がいいという考えで、


料理まで教わりにきて、それを忘れない様に書いておく。



そして、自分ひとりで、東京まで遊びに行って、


一人でレストランでご飯を食べて、


必要なら買い物をして帰ってくる。



月曜からの専門実習(園芸コースの作業)のために


金・土・日の時間の過ごし方を工夫して、


上手に遊んで気分を発散したり、


また月曜に間に合うように、


気持ちが落ち着くようになど、


自分なりに工夫してお休みを過ごします。



我が子ながら、親バカながら、偉いなあと。


特別支援の子なのに、凄いよなあと。



大人になることに


特に疑問や葛藤を持たず、


こつこつと安定して、


階段を確実に登っていっている感じがします。



対して、長男と長女は、


大人になる事自体に、なにか抵抗感と言うか、


「大人になるのは嫌だなあ・・


このままでいたいなあ・・」


という気分が見て取れます。



生活も気分もあまり安定していないし、


葛藤が強く、不安定な感じがします。



私やパパが、


「大人になるっていいよ~!」っていうメッセージを


送りきれてないのかな、と思ったり。


「大人になるって大変そうだわ・・」と


思わせているのかなと思ったり。


両親のせいだけではなくて、


社会とか、時代とかの影響もあるのかなとは思うのですが・・。



まあ、私自身も


「おとなになりたくないよー」


っていう、ピーターパン症候群の子でしたから、


まあ、わかる様な気がするんですけどね。



でも、おとなになるって


案外悪くなかったなと思いますね。


やらなくちゃいけないことも多くて大変なこともあるけど、


自分で決められる、自分で選べる、自由がある。


そして、まわりに対しても一定の影響力を持てて、


わずかだとしても社会を、人々を動かすことが出来る。


それはやはり、大人の方が力があると思います。


(たまにグレタちゃんみたいなスーパーチャイルドもいるけど!)



・・っていうか、そもそも、


自分、ちゃんとおとなになったのか?という


疑問もあるんですけど(笑)。



あんまり世間にも迎合しないし、好きなように生きてるし、


結構無邪気だし、大人じゃないみたい、っていうところもある(笑)。



そういうことを言ってると、


じゃあ「おとな」ってなんだ?っていうことにもなるんですが、


一定の基準としての


上記の「自立」「働くと言う感覚」は


まあまあ満たしているのではないかと思っております(自己採点(笑))。



でもね、長男、長女のことを上に書きましたが、


それはそれで、いいと思うんですよ。


そういう時期が必要な子達なんだと思います。


私がそうであったように。



大人になるのが嫌だ。


じゃあ、大人になるってどんなことなんだ?


大人になって、手に入るもの、失うものは何なんだ?


それは、手に入れなくてはならないものなのか?


失わなくてはならないものなのか?


大人になって、それらを手に入れたり、失ったとして


その先に見える、感じる世界は不幸なのか?


それを見ないで避けていくのは、幸せなことなのか?


そもそも「おとな」の基準ってなんだ?


(上記の2つと、それ以外には?)



まあ、そういういろんなことを


感じたり考えたりしながら、


ゆっくりおとなになってくれたらいいんじゃないかと


思っております^^☆






自分で選ぶ



二学期になってしばらくしてから、


ほぼ不登校に近い状態になっていた、


中1娘の、みーですが。


このところ、立て続けに学校に行っています。



先週、13歳になったのですが、


その誕生日を境目に、1日しか休んでいません。



「私、誕生日だし、生まれ変わったんだから」と言っています。


よく、学年の変わり目とか、学期の変わり目に


不登校の子って、そういう「新たなる」気持ちに


なることがあるようなのですが、


それが誕生日だったりもするのですね。



そういえば、最近、親しくしている青年が、


髪を切って、緑に染めました。


鋭い目つきをした子だったのですが、


急にずいぶん穏やかな顔になりました。


彼女が出来たんだそうです。


髪を染めたのは、「生まれ変わる」という証らしいです。



みんな「生まれ変わりたい」「生き直したい」


「新しくやり直したい」という気持ちをもっているものなのだなあと、


そして、それはやればできたりするんだなあと


見ていて、なんだか感慨深いです。



私は、正直、学校は行っても行かなくてもどちらでもいいか


と思っています。


行ければ行けた方がいいのかもしれないけど、


死ぬほど辛い思いをして行くところでもないと思います。



大切なのは、やはり「学ぶ」ということだと思います。


そのための環境が、先生とか、同級生とか、施設とか、


整っているのは、やはり家よりも学校かなと思います。


でも、家でも、それなりにいろいろ学べることはあるので。


(生きていくうえで必要な技術(例えば家事とか)は


家庭の方が教えられると思いますし。)



2学期に入ってからは、


私は「学校にいきなさい」的なことを言うのはやめました。



前のブログの記事に書いたことがあるのですが、


私の基本的な考えとしては、


「子供は学ぶもの(幅広い意味で)」ということがあり。


(それは大人になって生きていく力を身につけるために必要なので)



そのための段階として、


上にも書いたように、できれば家より学校の方が


整っている部分はあると思うので、このような順に考えてきました。



1.基本的に学校は行くものです


2.学校に行けなくても勉強はするものです

(学校の科目にとらわれなくてもいい)


3・勉強ができない時は病気の時です




1学期は「1」でやってきたのですが、


2学期から無理な感じになって来たので、「2」に切り替えました。



それに伴って、学校に関する声をかけるときにも


「学校は基本的に行くものでしょう」から


「今日はどうするの?どこで勉強したいの?」とか


「今日は学校にいきたいの?」というような訊き方になりました。



そういえば、しばらく前から(1ヶ月くらい前?)


「学校には出来れば行きたい」


と答えることが増えてきました。


先生が家に来て下さったことがあったのですが、その辺りからかな。



「どうして行きたいと思うの?」って聞いたら、


「皆と同じようにやりたい」って言うんですね。


そうか~、と思いました。


私としては、皆と違っても、一向に構わないのですが、


もう、それならそれで、もはや若干楽しみだったりもしますが、


(なんか、人とは違って大物になるんじゃないかっていう・・)


(とはいえ、正直、親もなんとなく大変ではありますが・・)


本人がそう望むのであれば、それが叶うと良いなと思ってました。



だから、本人が学校にいけた日にも、


社会的な意味や一般的な意味で、「学校に行けてよかったね」


というよりは、


「あなたが学校にいきたいと望んで、それを選び取って行動に移せたのは


良かったね」という感じでした。




今日は合唱祭でした。


舞台の上で、堂々と心を込めて歌っている娘を見て、涙が出ました。


皆と一緒に、こういう学校生活をしたかったんだろうな、って。



学校の授業は好きではないし、


っていうか、数学なんか苦痛でしかないみたいだし、


嫌いな子だって同じ学年に入るし、


何もかも All Happy なわけではない。



でも、人生にBestな選択なんて、あまりないものだと思います。


Aを選んでも苦労があり、Bを選んでも満たされないものがある、とか。


その中で、よりBetterな方を選んでいくというのが、


実際の、ほとんどの人生なんじゃないかと思います。



でも、実はあまり「選んでいる」という感覚の


無い人もいるのかもしれません。


なんとなく、「みんながそうだから」とか


「親とか友達に勧められたから」とか


そういう理由で、特に疑問も葛藤もなく


なんとなーく生きている、っていう人も


もしかしたら多いのかもしれません。



でも娘は、普通、あまり人がひっかからないようなところで


引っかかって、毎日私に、


「今日はどうしたいの?」という「選択」を迫られてきた。



そして今、彼女は自分なりに、


「みなと同じように、学校にいきたい」という


より「Better」な方を、自分の意思で選び取って、


学校に通い始めています。



これからどうなるかはわかりませんが、


彼女がどういう選択をしても、


できるだけそれを応援してあげたいと思います。



この前何かで読んだのですが、


「自分が選んだ、という実感が強いほど納得感の強い人生になる」


とか。


私も、節目、節目では「選んだ」という実感がとても強いので


そうだろうなあと、しみじみ思います。


自分の人生のハンドルを、自分で握れてる感覚、っていうんですかね。



不登校(学校にいきにくい)ということを通して、


親子共々に、いろいろなことを学んでいるんだろうなと思います。





娘への手紙。

2024年10月07日



25660002



昨日の記事の続きなので、


昨日の記事をご覧になっていない方は、


そちらからご覧下さい。


(この手紙の内容がわかりやすくなると思います。)



この手紙、


ちゃんと紙に書こうと思ったのですが、


書こうと思って二階にあがってきたら、


娘(みー・中1)が起きていたので、


この脳内手紙を読む感じで伝えました。



「みーへ。


昨日はお疲れ様でした。


世の中のせちがらさを知りましたね。


声優という仕事が、ほんの一握りの人しか


それで食べることは出来ないということ、


本当に本気じゃないとなれないということが


わかりましたね。


副業とか、趣味でなら、ありかもしれないけどね。


それとは別に、


あなたが人前で表現をすることが好きだということ、


少し盛られていたかもしれないけど、


あなたの声がほめられたということ、


表現力があると評価されたこと、


それはそれとして、よかったこととして


とらえておいたら良いと思います。


そして、「声優」というのは、


ほんの一握りの特殊な職業であるわけだけど、


声優でなくても、世の中のかなりの仕事が、


「声」というものを使う仕事だということも


覚えておいてください。


レジの人でも、営業でも、お店でも、


学校や保育園の先生でも、相談員でも、占い師でも


みんな、声の良さや、表現力というのは


どこでも生きるものだということを覚えておいてください。


おかあさんより」



こんなところに私的な手紙を出すのもどうかと思いましたが、


結局毎日バタバタしていて、日記を書く余裕もないので


自分の備忘録、もしくは日記代わりという意味でも、


ここに記させて頂きます。




子供は可能性のかたまりです。


めいっぱい、可能性が詰まっています。


何にでもなれます。


そして、「可能性を伸ばそう」ということばかりが


声高らかに言われます。



でも、たまには、「その向こう側」の面も


見たほうが良いのではと思います。



実際、その子の人生で、なれるものって


そんなに数多くはありません。


少ない人で1つ。


多くても、最大でも10個くらいではないでしょうか。


転職とか副業とかもある時代だから、


そして、趣味の分野でも「何かになる」とも言えるかもしれないから・・


なんて考えると、平均3~6個くらいなんでしょうかね、なれるものって。


逆にいうと、それ以外の全ての可能性を削って、


そこへと特化して、なんとか「それになる」わけです。



だから、「たくさんの可能性に満ちている」というのは


「まだ何も選んでいない」ということでもあるわけです。



あまり語られないことですが、可能性は、


あれもこれも、伸ばすだけじゃダメなんだと思います。


どこかで、選ぶ。削る。少なくしていく。


そして、選んだものを伸ばしていく。


伸ばしてみて違うようだったら、また別のものを選ぶ。


もしかしたら、あきらめたもの、捨てたものの中に


リメイクして伸ばせる何かが眠っている可能性もあります。



だから。


何かにつまづいたとき、「これで可能性が削れた」


と思うと、いいのかもしれません。


チームでやっている場合などは、自分がダメだとわかると


他の人に素直に任せられるようになったりします。


削らなければ、集中して伸ばしていくこともできません。



ものごとは両面から見よう、というお話でした^^☆




やる気スイッチ電話占い



五月雨登校の中1の、みーのお話です。


みー自身が言うように、


みーのやる気スイッチはどこにあるのか、よく分かりません。



2学年下の、たまに遊びに来るYちゃんという子がいるんですが、


Yちゃんとはたまに「一緒に勉強しよう」という話になります。



例えば、漢字練習一つとっても、


yちゃんは「じゃあ、やろうか」とこえをかけると、


「はい!」といって、3秒で鉛筆を手にとって始めます。



みーはといえば、「うわ~やるきでねぇ~」とかいって、


「うーやだー」「めんどい~」とかいって、


しまいにはお絵かきとか始めて、


漢字練習が始まるのが30分後くらいです。


みーは、「私のやる気スイッチは陥没してて、


どこにあるのかわからん」とか言ってますけど、


まさしくそんな感じです(苦笑)。


「じゃあ、ここまで終ったらクッキー1枚とか


自分でごほうびとか作ってやれば~?」というのですが、


そんなのではやる気は出ないんだそうです^^;



誰でもそうですけど、


特に私たちみたいな起業家、自由業みたいな人って、


自分で何かしらしないと仕事にならないですから、


どうやってやる気を出すかって、死活問題なんですよね。



起業家(特に初期)の抱える問題の1位は


たぶん「やる気が出ない(続かない)」だと思います。



基本中の基本としては、


「やる気が出なくても、とにかくやれ。始めてみろ。


やればやる気は出てくる。」というのが


鉄則ではあるのですが。



普通に学校に行っている子でも、誰もが多かれ少なかれ


宿題などでぶち当たる「やる気」問題ですが。



情緒的に人よりも揺れがちな、みーにとっては


普通の人よりもさらに大きな課題です。



「やる気」と、あとは「情緒の安定」。


言い換えれば、「どうしたら気持ちが落着くか」、


もしくは「どうやって自分のご機嫌を取るか」


ということですね。



大人になっても、自分のご機嫌を自分で取れない人って


けっこういるように感じます。



なにも、全部一人で解決しないで、


話を人に聞いてもらうというのでもいいのですが。


それでも、穏やかに話せるなら、とても良い方法ですよね。


大人になっても、自分のイライラを、


親とか、パートナーとか、子供とか、部下とかに


当たってしまう人って、いっぱいいると思うから。



「やる気や気持ちのコントロール」、


苦手だからこそ、そこに意識して向き合って、


自分の気持ちをなだめたり、上げたりする方法を調べておく。


それも「たけのこすくーる」でやっていきたい活動の1つです。


(「たけのこすくーる」については、2024.8.23ブログ参照)


ちなみに、昨日の様子から、みーの場合は


洗濯物たたみ(いわゆる単純作業)は、心の安定に、


気持ちを上げるのには、塗り絵がよさそうだとわかりました。



だんだんと、「みーの心カルテ」に記録していきたいと思っています。




kokuban



昨日の続きです。


2時間目、3時間目はお琴。


うち、仕事柄、珍しくお琴なんかありまして。


たまたま出しっぱなしになってたんで、弾いてみようか、と。


お琴って、普通、「平調子」っていう音階の、調弦をするんですね。


ドレミじゃないんです。


みーには、小さいときから、少し、


平調子の弾き方は教えてきたのですが。


それをまず最初に、ちょっとだけやって。


その後に、私もいつかやってみたかった、


「ドレミ音階」に調弦しなおして、現代の曲を弾くっていう。


それを課題に出しました。


ノーヒントです。


自力で何とかしてみてね、というかなりの無茶振り(笑)。


かなりのところまでなんとかやってましたが、


途中で、「無理だ~」と言ってきました。


実際、私もやり方など知らないので、


YouTubeで、「琴 調弦 現代音楽」とかで調べて、


「これ見てやってみー」と。


しばらくして行って見ると、


チューナーを自分でダウンロードしてやってました。


さすが現代っ子!


しかし、途中で疲れてくじけそうになっていたので、


私もチューナーがあればできるので、半分ちょっと、


音を合わせて、あとは彼女に頑張ってもらいました。


で、弾きこなすまではいきませんが、


簡単な童謡や、「君の名は。」の歌とか、「君を乗せて」とか


まあまあそれなりに弾いてました。


時間を忘れて、疲れ果てるまで弾いてました(笑)。



3、4時間目は、家庭科。


和風パスタを作って食べました。


庭にあるシソを採って来るところからで、


たった2分くらいで、5箇所くらい蚊に刺されてました。


ふふふ。


いつも出されたものを食べてるだけだと、


調理以前にこういう大変さがあるのを知らないであろう(笑)!


思い知ったか!(笑)



5時間目は、読書


としてみたのですが、「疲れちゃって無理だー」というので


雑誌の片付け。


子供向け雑誌が、たまりにたまって、山になっているので、


それを、必要な部分があればとっておいて、


あとは処分しようね、っていう


5時間目は 片付け


ということにしました。



なんか、とりあえず、楽しかったですね、初日。


みーも、楽しそうでした。



自分で、一番意外だったのが。


自分自身の心の動きです。



本格的に学校に行かなくなっちゃったらどうしよう、


みーの進学や仕事については?


面倒を見るにしても、自分の仕事との両立は?


とか、考えると、なんだか気が重くなったりもして。


ここには明るいことを書いてることが多いと思いますけど、


正直、そんな重たい気持ちにもなったりすることもあるわけですよ。



ところが。


よし、この際は、いよいよ「たけのこすくーる」だな、と


腹を決めた初日の今日。


自分の、一番感じた思いは、何であったか。


たぶん、ほとんどの人は、当たらないと思います・・(笑)。


それは。


「文科省から、教育の手綱を取り返した」


という思いでした。


「学校から」ではないですよ。


学校の先生は良くやってくださっていると思うし、


文科省の指導の下に動いているわけですから、基本的には。


いや、文科省が全部悪いと言ってるわけでもないです。


小学校までの学力を付けていただき、


そして、次男は、特別支援の教育で、


本当にどれだけ育てていただいたか、


親は何もしなかったような気さえします。


ありがたいと思っています。


しかし、その上で。


自分が、中学以来ずっと思ってきたこと。


特に、中学校以上の勉強は、


一体何の役に立つんだろうか、ということ。


いや、人によっては、ものによっては、


役に立つと思います。


でも、相当、使わないことも多いです。


数学のルートとか、因数分解とか、関数とか、


古文、漢文、県庁所在地、その他諸々、


ほとんど知らなくても困らなかったと思う。


っていうか、必要だったり、好きだったりすれば、


そのうち自然に学ぶようになるんじゃないのかなあ?


それより、もっと生きてて普通に使う、


「経済」とか、「心理」とか、なんなら「片付け」とか


そういう役に立つことを教えて欲しかった~!と


15才の時の私は思ったまま、今日に至っているわけです。



私と娘は、違う人間です。


だから、興味の方向もちょっと違います。



だから、「私のやりたかった『こと』」ではなく


「私が学びたかったような『方法で』」、


どうやって学ばせてあげられるか、ということを


実験していくんだなという気がしています。



娘のためでありつつ、


私の中にいる、学生時代の自分のためにも


何かを満たしていく活動になるのだろうと思っています。






たけのこスクール



今日も、娘のみーが、学校に行けなかったので。


今日から、いよいよ


「たけのこすくーる」、開校することにしました!


詳しくは8月23日の記事にありますが、


わたしと娘のためだけの、相当ゆるっとした


自主性を重んじる学びの場です。



とにかく、本人の好きなことや得意なこと、


そして、大人になって使えることを学びます。


受験対策とかはあまり考えないです。


(今のところ、そういう考えです)



今日の一時間目は、お話。


とはいえ、なかなか起きられなかったので、


実際の時間としては、たぶん一時間目の終わりごろ。



何とか起こして、布団の上に座らせて。


ねぼけまなこの娘に。


「いい?ちゃんと聞いてる?大事なこと話すよ。


お母さんはね、学校に行かないことが、


いけないことでもなければ、だめなことでもないと思ってる。


あなた、中学に入る時に、中学三年間の目標を私に言ったよね?


覚えてる?」


「無遅刻・無欠席・無早退?」


「違う、それじゃない。あなたは、こういったんだよ。


この3年間で、何の仕事に就くか決めたい、って」


「そうだった」


「今、こうなってるっていうことはね、


ある意味では良いのかもしれないと思ってる。


仕事を選ぶ時には、いくつかポイントがある。


好きなこと、得意なこと。嫌いなこと、不得意なこと。


このうち、好きなこと、とくいなことを選ぶ


っていうのもあるんだけど、


嫌いなもの、不得意なことを捨てていく、っていう方法もある。


そう考えると、たぶんあなたは、


学校の授業がしんどいってあたりで


机に向って、言われたとおりに、間違えないように、


きちんと作業をこなす、みたいな


おそらく事務員とか、公務員は向いてない気がする。


ってことは、そこらへんはないかなって、


絞られてきたわけだ。


これが、通知表が、全部4や5の子だと


何が得意なんだか、何に向いてるんだか分からない。


だから、みーの目標的には、これでよかったと言えるのかもしれない。


だからこれから一緒に、得意なことや好きなことを伸ばしていこう!」


というお話をしました。


(自分が思い出せる用にも、


こうやって書いておく機会があってありがたいです!)




記事が長くなりましたので、


2時間目以降は、明日の配信に致します。


お楽しみに^^☆




unndoukai




中一の娘ですが、


行きつ戻りつながら、


このところは葛藤が強くて


学校にいけない日が多くありました。



体育祭が近いというのに


体育祭の練習は、学校自体に行っていないため、


結局1、2回しかできず。



「種目なんだっけ?騎馬戦とかやるの?」などと訊いても


「行ってなさ過ぎて、なにをやるのかもわからん」


みたいな状況・・。


果たして、当日(今日)


行くのかどうかと思っていましたが、無事に行きました!



出場種目は、


・個人の徒競走


・学年種目

(皆が背を丸めて、小さい子がその背中の上を走って渡ってくやつ)


・全員リレー


・応援合戦


・綱引き


でした。



開始時間が早すぎて(8時台)


洗濯干しも終らず


駈けつけてみると、全員リレーからでした。



人数が多い学校なので、見つかるかな~と思ったのですが


うちの娘、ナチュラルにちょっと変わってるので、


ほとんどの子は普通に、直に頭にはちまきを巻いているのに、


帽子の上にはちまきを巻いている子が何人かいて、


そっち側かな~と思ったら、やはりそうでした(笑)。


しかもみんな短い靴下なのに、


娘は長いハイソックスなので、すぐわかる(笑)。


そういう子でよかった^^;




全員リレーでは


普段休みがちだし、特に今は運動もしないので


(こけるな~ こけるな~)とだけ念じてました。


こけなかった!・・よかったです、本当に!!



そして、綱引きでは、勝ちました!


飛び上がって喜んでました!



リレーでも、綱引きでも、


退場の時には私の前を通るんですね。


私、小さいんで、2列目以降にいると


見つけにくいと思うのですが、


ちゃんと見つけて、嬉しそうに手を振ってくるんです。


ああ、まだまだ「おかあさん」なんだな、


そして、「お母さんがいると安心」なんだなと


改めて思いました。



彼女が体育祭で、どんな様子を見せるのか、気になっていました。



その場にいたとしても、


「どうしてこんなことしなくちゃいけないんだろう・・」とか


「こんな暑い中,馬鹿馬鹿しいわ~」とか


思っている可能性もあるし。


笑っていたとしても


「このシーンで笑っとかないと変に思われるし」


みたいなことを思ってるとかもありえるし。


でも、そうではなく、ナチュラルに楽しそうでよかった!



皆で綱引きをして、勝って、飛び上がって喜ぶ!


なんて、学校以外では出来ない体験ですからね。



不登校の苦しさ、つらさは、


勉強が遅れるということだけではなくて


この、行事や部活をはじめとする


「みんなとするいろいろな経験」が


できなくなってしまうことも、


一つにはあると思います。


不登校と言われる子達でも


「学校が楽しい、と思う瞬間」って


時には、あるものなんですよね。



例えば、部活だけ学校に行くとか


行事関係だけ行くとか


(体育祭、合唱祭やその練習などだけ行く)


そういう行き方もあっていいんじゃないかなと


思ったりもして。



たぶん、当事者にしてみれば


(そんな時だけ来やがって、と思われるのが嫌だ)


とか、めっちゃありそうですけど。



でもまあ、その辺は


「もし羨ましいなら、あなたもそうすれば?」ってことで。


それなりにまあまあリスキーだけど、覚悟でね、っていう。



大学で、好きな科目を選んで取って、


その授業だけ聞くというスタイルがあるのだから、


ありといえば、ありなんじゃないかなと思うのですが。




不登校問題解決の一つの案として、


「登校できるようになる」と


「不登校でも良いじゃん」以外の


通常登校でも不登校でもない、


行きたくないけどしぶしぶ時々行く五月雨登校でもない


新しい選択肢!


「好きな科目とか、好きな時間だけ行けば良いじゃん!」


っていう。


これの最大の壁は、


「それを、先生や周りの生徒がどう受け止めるか」


っていうことなんですけど。



それって、


「学校で、学びたいことだけ、学びたいし


体験したいことだけ体験したいし


その他は自分で学びます」っていう


かなり独自の学び方で、


今の教育に対して、挑戦的ですらあると思うのですが・・。



皆さん、どう思われます?


よかったらコメントいただけたら嬉しいです^^☆




4282001_s



いわゆる学生時代の「頭がいい」って


学力が高い、ということを意味します。



それは、本当の意味で「頭がいい」のとは


実はかなり違うというか・・。


そのうちの、ごく一部なんですよね。



IQが高い、という評価基準もありますが、


さらにその中の一部、というようなものです。



定期テスト、高校入試、大学入試・・


それらの問題には、大抵「定型」というのがあって、


それに沿って、求められるような解答を書く、


という、ある種の「特殊技術」なわけです。



この「特殊技術」習得に向いてる人っていまして、


・暗記が得意


・読み書きが得意


・紙に向かって何かを書くという勉強スタイルが得意


・負けず嫌い


こういうタイプは、おそらく学力(成績)が


伸びる傾向にあるのではと思います。



でも、社会人になってからの「頭のよさ」って


違うんですよね。


もっと、だいぶ幅の広い分野を指すことになります。



考えを動きに出来る「行動力」「実行力」


みんなをまとめあげられる「統率力」


何かを作り出す「創造力」


相手の気持ちや、未来の展開などを予想する「想像力」


小さな手がかりから、一を聞いて十を知る「洞察力」


とても高い視野から客観的に物事を見られる「俯瞰力」


何か一つのことに没頭して突き詰めて調べて考えきる「研究力」



その他にも


いわゆる「要領がいい」とか


「作業の段取りを組むのが上手」とか


どうやったら欲しいと思ってもらえるかっていう


「マーケティングの力」とか


とにかくどうにかやっつけちゃう「マネジメントの力」とか



みんな


「頭のよさ」の部類に入ると思うんですね。




当然、人間、「頭のよさ」が全てな訳では全然ないし。



まずは一番大事ともいえる、「体力」。



あとは、心の力。


「精神力」「忍耐力」


もう少し詳しく言えば「自分で自分の機嫌を取れること」とか



心や精神の色合いっていうのもありますよね。


「ポジティブさ」「寛容さ」「慎重さ」

「柔軟さ」「一途さ」「優しさ」とか


これはもう、良い悪いとかではなかったりもしますね。



まあ、これらを一言で言っちゃえば、


「人間性」と言えるでしょうか




だから実際には、社会人って


もろもろの「頭のよさ」プラス「人間性」で


勝負してるんじゃないでしょうか。



だから、実際には「学力」と呼ばれる


「教科書」に書いてあることをどうこうなんていう


「特殊能力」は


大人になって役に立つものの、一割にも満たないと思います。



いろんな起業家さんの話を聞いていると


成績オール3で年収一億を超えるようになりました とか


けっこう聞きますもん。



日本の教育も、いつまで「特殊技術」を磨く


ことばっかり一生懸命やってるのかなあと思いますが。



だから、学校に行っていなくても、


考えようによっては「特殊技術の習得」という呪縛から


逃れられて、他の力を伸ばす時間を手に入れたと


考えることも可能です。



本人も葛藤が多かったりして


なかなか簡単には


親子共々、そうは思えないかもしれませんが


ゴールをしっかり見つめておくと


途中はまあどうでもいいか、という余裕も生まれます。



うちもいろいろありますが、今、私の中には


「どうせ、大丈夫」という言葉が鳴っています。


(これ、「どうせ」っていうのが、ちょっとポイントです(笑))







画像



唐突ですが。


牛乳パックの縦×横×高さは1リットルないって、知ってました?


1ℓ、つまり1000mℓに満たないって。



まあ、私も、先日、本で読んで知ったんですけど(笑)。



あれですよ、


このごろ、物価が高くなって、


今まで1ℓだった牛乳を900mℓにして売ってるよね~


っていう話ではないですよ(笑)。


あ、実際にそういう商品はありますが(笑)。



リアルに、1ℓって書いてある牛乳の、その箱の。


その牛乳パックは


縦×横×高さは1ℓ(1000mℓ)に満たないって。



だれか、この秘密、分かる方~!?


(ノーヒントでわかった方いらっしゃれば


ぜひコメント欄に「わかりましたよ!」って書いて下さい^^☆)



これ、授業で、ある先生が、生徒に問題を出したらしいんです。



そしたら、一人、答えられた生徒がいたそうです。


「牛乳パック、膨らむから」


それが、正解です!



決して学力の高い子ではなかったそうです。


でも、賢い子だなと思います。


実践的な能力が高いというか。


観察力が鋭いですよね。



たぶん、想像ですけど。


ちょっと暑い日、あったかい日なんかに、


お家の人と買い物に行ったのではないかな。


その時に、


「あったかいと、牛乳パック、膨らんじゃうんだよね~」


なんて会話、したことがあるんじゃないかなあ。



例えば、あったかい空気や水は上に行き、


冷たい水や空気は下に行く、というのも、


おふろや部屋のエアコン等で


自分で体験するとよくわかりますよね。


理科のプリントで暗記して答えるよりも。



だから、学んだことは


少しでも日常生活に落とし込んで体験させると


身につき方が違います。



特に、9歳の壁、といって、


それまでの整数などの、目に見えるわかりやすいものから


少数、分数等のわかりにくい概念を扱うようになる3年生以降。


そこまでに


たくさんの、こういう「実体験」を積んでおくことで


抽象的なものの理解がしやすくなるそうですよ。



何か参考になれば幸いです^^☆





koumonn94



今、もしかしたら


生きるか 死ぬか みたいなところまで


追い詰められているかもしれない



今は笑って話せるけど


あの頃の私もそうだった



あの時の私に言うつもりで話すね



みんなが出来てることができなくて


心身共にボロボロで


誰にも本心は言えなくなってて


八方ふさがりだったよね



自分なんて負け犬だ


人生の敗北者だ



もう 転落とどん底の人生しか


思い描けなくなっていて


生きていても 絶望しか見えなかった




でもその時に現れた


ある出逢いが


私の人生を変えた



それはもしかしたら


人ではないこともあるかもしれない


一つの言葉だったり


一つの光景だったりすることもある



今はまだ わからないだろうけど


そこまでつらい思いをしているのは


その後の人生で


大きな使命を背負うためだ



だから


絶対 今、そこで


死んじゃダメだ!


何でもいいから 生き延びろ!



引きこもってもいい


家出してもいい


死ななきゃいい



生きてさえいれば


ここさえ越えれば


だんだん楽になる



今 全く予想できない出逢いと


想像もできない使命と


カラフルな毎日が 待っているから



未来は 大丈夫


心配ないから



だから 生きて!



死ぬ気になれば 何でもできる


思い切って 誰かに想いを話してみて



もしも誰もいないなら


このコメント欄に書き込んでください



もしくはメッセージを下さい


お返事します




syukudaineko



夏休みがもうすぐ終わりますね。


あ、正式には昨日までが夏休みですかね?


今年はプラスアルファ、日曜日があるので

最終最後、宿題が残っている子にはラッキーでしたね!



さてさて。


宿題、ですね。


日本では、宿題があるってあたりまえですけど。



聞いた話ですけど


フランスでは、宿題を出さないでほしいって


親と学校がもめたりしたことがあるとか。


家にいる時には


家の時間を大切にしたいから


学校のことを持ち込むのはやめてほしい、と。



そうかと思えば


中国、韓国辺りでは


もうむちゃくちゃに家でも勉強してるっぽいですからね。



世界でも、いろいろあります。



だからこの際、世界ではどうだ、


日本の平均ではどうだ


クラスの他のみんなはどうだ


とかじゃなくてね。



この子の未来に対して、どうなんだ?


っていう風に、考えたら良いんじゃないかと思うんですよね。



そしたらもう


宿題が出来るできないって


どうでもいいような気もするんですよね。


いや、もっと言っちゃえば


学校の勉強ができるできないも


相当どうでもいい気がするんですよね。



だって、前にも書いたけど、


ほんとに正直に言えば



「円の面積の求め方を、

大人になって聞かれたこともなければ 教えたこともない」

by サンドイッチマン 富沢さん


ですもん。




問題は、高校受験、大学受験辺りかなとは思いますが。



大学は、そもそも勉強が嫌いなら行かなければいいと思うし。



高校は、できれば行ったほうが良いけど、


いわゆる「良い高校」に行ったからとて


ほんと、そんなこと世間から見たらどーでもいいし。


(私、埼玉ではちょっと名の知れた進学校に行ってましたが、

千葉では誰も知る人もいないので、ほんとにそう実感します。

その方がかえって気が楽ですが(笑))



まあ。


授業であれ、宿題であれ、


言われたことをこなせる能力は


世間で生きていくうえでは大事ではあるけれど。



でも、自分自身の人生を振り返ってみたときに。



私の場合はなんですけど、


働き方が自営業みたいな形のときが多くて


そのせいなんでしょうけど


言われたことをいかに正確にできるか


っていう、


いわゆる学校で求められるような力ではなくて


答えのないところから


どうやって自分なりに目標をつくって


それに対してやる気を出して


どうやって、それを、どうにかするのか


ということを求められてきた気がします。



それは、勉強の中でも


自分なりの工夫とかで身につく部分もあると思いますが


逆にいうと


勉強じゃなくても身につけられるものではないかと思います。



今、よく見ている起業系YouTuberで


偏差値30代だったけど、今は何億も扱っているという人がいて


結局、「学校の勉強が出来る」というのは


人間の沢山ある能力の中の、


ほんの一つの、特殊な能力に過ぎないんだよなあと


改めて思っています。






病院不登校



今日、久しぶりに


発達障がいと不登校を専門にやっている


知り合いの先生に、


長女の不登校についての相談をさせてもらいました。



いろいろお話したんですけど


結局、私が一番聞きたかったのは


病院のこと。



小学校の頃から、そして、中学になっても、


学校のある日は、


朝から、ちょいちょい具合が悪くなったりしてました。


おなか痛いとか、気持ち悪いとか、めまいがするとか。


まあ、よくある心因性のアレですよね。


学校に行かなくちゃ、っていう葛藤から起こったりします。


それは、そういうことだと理解していたので、


それについてはそんなに心配はしていなかったのです。



ただ、夏休みになっても、


それがスッキリしなかったんですよね。


学校のある時よりは減ったものの、


3日に1回くらいかな、お腹が痛いとか、気持ち悪いとか、


けっこう頻繁に言ってました。


それで、ちょっと心配になったんですよ。


登校のストレスからは開放されたはずなのに、なぜだろう・・?


って。


で、もしかしたら、本気で何かの病気を持ってるのかも・・


と思ったので、相談してみることにしたのでした。



最初、病院に行こうと思ったのです。


でも、まず何科に行けばいいのかもよくわからない。


心療内科?神経科?精神科?内科?小児科?


で、上記の先生に相談したところ、


「心療内科か思春期外来がいいかな」と教えてもらい。


「思春期外来っていうのがあるんだ~!」と


勉強になった次第でした。


「でも、病院に行く前に、1回電話で話さない?」


って言ってくださったので、


実は、今日の午前中は、電話でお話していました。



いろんなことを話しましたが


病院についてのことだけをピックアップしますと。



先生

「そもそもなんで病院に行こうと思ったの?

病院に行っても、実際それで不登校が治るとかってあまりなくてさ。

結局、薬を出されて、様子見ましょうってことになるからね。」



「そうですよねー

私も、病院に行ったら不登校治るとかは、全然思ってなくて。


病院に行っても、結局、薬なんだなっていうのはわかってて。

知り合いに免疫系の研究者がいて、日本の精神薬って相当ヤバイって

聞いてるし、自分もちょっとだけ飲んだことあるけど

ほとんど効き目感じなかったし、

ギリギリまで薬は飲ませたくないんですよね」



先生

「結局、薬漬けにされちゃったりってこともあるからね」



「そうなんですよねー


いや、そっち方面の話ではなくて、

体調が、夏休みになったら、登校もないし、

ぱっとするかなと思ったんですが、

案外とダラダラと良くないもんで。


なんか、心因性かと思いきや、案外と、

何か本気で、別の、

変な病気を抱えてたらやだなって心配になってきて・・」



先生

「不登校の子は、特に、五月雨で学校に行ってたような子は、

夏休みになっても、ぱっとスッキリしないことが多いよ。

そういう状態は、よくあるよ。


あとね、病院は本人によく相談して。

本人が行きたくないって行ってるのに、行かせても意味がないから。」



「わかりました!安心しました。

夏休みでもスッキリしないで引きずるもんなんですね。


そういうもんだとわかれば、たぶんなにか他の大変な病気とかでは

ないと思うし、しばらく様子を見ます!」




っていうことで。


めちゃ、スッキリしました!


同じようなパターンの人、あまりいないかもしれませんが、


もし、そういう人がこの記事を見てくださったら、


そして、別のパターンの方でも、


なにかしらお役に立つ部分があれば、嬉しいです。



もろもろ、約1時間にわたり


うちの、半分お笑いのネタのような不登校の話を


お互いに笑いながら、話したり、聴いたりという時間の中で。




先生、こうおっしゃいました。



「みーちゃん(長女)はさ、もう、


フリースタイル中学生でいけばいいと思うよ!」


「私もそう思います!(笑)」




先生は、私と長女との関係性が悪くないのを感じ取って。


「お母さんが、そういうスタンスなら大丈夫」


と。




そして、


「不登校の問題って、結局は親子の問題なんだよね」って。



これは、なかなか深い一言だと思いました。




実際には、不登校のきっかけは、いろいろだと思います。


いじめであったり、担任との相性の悪さであったり、


体調不良だったり、いろんなきっかけがあると思います。




でも、そのきっかけから始まる「不登校」という現象が


その「親子関係」を、あぶりだしていくんじゃないかと。




そこまでに築いてきた親子関係の中間的まとめ(清算)として、


出てきている「不登校」という状態なんだと思います。


もしくはここまでの親子関係の、その延長で行った場合の


未来に出てくる危険を回避するためでもあるかもしれません。




まあ、ともかくも、


「不登校」という状態が、


今、この親子には必要なのであって、


そこでよく話し合ったり、時間を共に過ごしたり、


共に悩んだり、考えたり、模索したり、


乗り越えたりする体験が、今、その親子に必要だからこそ


起こっていることなのだろうと思います。



そして、そのいろいろの結果、


結局、学校に行くようになろうが、


学校に行くようにならなかろうが、


それは、もうどちらでも良いのではないかと思います。



だって、学校は、人生の中間地点に過ぎないから。



けれど、そうやって、


「不登校」という時間を与えられた親子が、


その時間を大切に生きることが出来れば


きっとそれは、その親子にとって


必要だったものを消化、吸収できる時間なわけで。



実は、普通に問題なく学校に行き続けられた子よりも、


もしかしたら、濃厚な素敵な時間を


親子共々に過ごせるのではないかと思っています。




ちなみに、先生の名前は


新田恒夫 先生


「不登校 新田恒夫」でYouTube検索すると


いろいろと出てきます。



先生のお話は、ほっとして、元気が出ますよ☆


良かったら検索してみてくださいね^^☆






竹の子スクール



たけのこすくーる。


「竹の子スクール」ですね。


皆さん、ご存じないと思います。


なぜなら、私の頭の中にある学校だから(笑)。



校舎は特にありません。


カリキュラムも、きちんとしたものはありません。


ただ、なるべく役に立つことを、


できるだけ楽しく学ぼう、というイメージです。



活動場所は、主に図書館。


図書館でいろいろなジャンルの本を読むのがメインの活動です。


そして、実習として、家。


それと、知り合いの事務所とか。


家事を教えたり、作業をお手伝いしたりします。


学校に戻ろうと思ったら戻れるように、


お兄ちゃんにも協力してもらって、


数学と英語だけは積み重ねていきます。


英語は、時間を決めて、


その時間だけは英語で会話することにしようかな。



もし、みんなと同じように学校に行けなかったとしても。


背中を丸めてないで


世間的にに恥ずかしいとか思わないで


胸を張って


私、ちゃんと学んでますと


そういう姿勢で生きてほしい。


そして、ちゃんと自分の未来を


自分で選び、掴み取ってほしい。



そのために、「たけのこすくーる」


私の頭と心の中に、用意しておきます。



「たけのこ」は、自らすくすくと伸びていく象徴。


ぜんぶひらがななのは、ゆるやかさ、しなやかさを表したもの。



この学校は、果たして活用されることになるのか、どうか。


私の不登校占い(8/18ブログ)は当たるのかどうか。



できれば外れてくれないかなと思いますが(笑)。



もし、当たったら当たったで。


子供の頃、学校の先生になりたいと思った


その夢を、


神様がこういう形で叶えてくれたんだと思って。


しばしの間、「たけのこすくーる」、開校いたします。



さて、どうなるのか。


続きは9月のお楽しみです^^☆




画像



子供が学校に行きたくない、っていう時に、


「義務教育なんだから、行かなくちゃだめよ!」


って、言ってる親御さん、いらっしゃらないでしょうか。



改めて、ここで、元の意味を引いてみましょう。



日本国憲法


第 26 条 

すべて国民は、法律の定めるところにより、

その能力に応じて、 ひとしく教育を受ける権利を有する


② すべて国民は、法律の定めるところにより、

その保護する子女に普通 教育を受けさせる義務を負ふ。

義務教育は、これを無償とする。



久しぶりに見ましたよね~、日本国憲法とか(笑)。


学生の時以来、なんて方もいるかも!



・・で、わかりました?


義務は、誰にかかっているものか。


親なんですよ。


「子供に教育を受けさせる「義務」が、親にある」


ってことなんですよ。


子供は、


「教育を受ける「権利」がある」


ってことです。



そうすると、冒頭の文章、


「義務教育だから行かなくちゃだめ!」


っていうのは、おかしいんですよね。



「私には、あなたに教育を受けさせる「義務」があるから、


それを果たさなくちゃいけないから、だから学校に行ってね」


ということになります。



もう少し突っ込んで言うと、


「教育は学校で受けなくてはならない」ということでもないので、


まあ、塾とか、親とかが教えても良いんですが、


塾はお金がかかるとか、


学校行かないとみっともないとか


ご近所の目があるとか


人間関係がせまくなっちゃうんじゃないかとか


親が教えるのは忙しいしめんどくさいとか


いろんな理由で、


とりあえず「学校に行っといてもらうこと」が


いちばんめんどくさくなく、手っ取り早いわけです。



だから、本当だったら、「教育を受ける権利」って


実はいろんな多様なスタイルがあっていいんじゃないかと


思うんですが、


実際には、いろいろと不安だったり、面倒だったりするので、


親の都合で、一番手っ取り早い「学校」に行ってほしいわけです。



だから、私、娘に、リアルにこう頼んだことがありました。


「あなた、中学生でしょ。中学生は義務教育です。


親には、あなたに教育を受けさせる「義務」があるのね。


だから、本当はそれはいろいろな形があってもいいのかもしれないけど、


なかなかそれも、私も忙しいし大変だから、


だから、申し訳ないけど、学校に行ってくれる?」・・と。



「義務教育」ということを持ち出して、


子供に学校に行かせる話をするなら、


たぶん、これが一つの正解だと思います。



とはいえ。


その時は娘も頑張って「わかった」と言ってくれたものの、


そんなことくらいでは、


なかなかちゃんと行けるようにはなりませんよね。


上記の私の発言は、


通過点での話で、これが正しいとは思っていません。



なんとなく、まだくり返しがある気がしているので、


「教育の権利・義務」あたりの深堀りの実験・考察については


これからかなと、思っています。




不登校が治る?



アストロラーベの活動をするにあたって、


一般の人に比べて、とても縁遠かったSNSの世界ではありますが、


インスタなど、始めてみました。


もう、半年以上経つのかな?


で、いろんな投稿が流れてきますよね。


その中に、


「我が家の子供3人の不登校が、一年半で治った!」


というのがありました。


たしか、ママ自身が悩んで、学ばれて、


そして子育てのコーチかカウンセラーになられた方だったと


思うのですが。


「すげ~!」


と思った反面、「治る」という表現に、


ちょっと引っかかりも感じました。


治るって・・病気じゃないんだからさあ。


なんか、病んでるみたいじゃないですか。


まあ、病んでる子もいると思いますが、


いたって元気に不登校してる子もいるんじゃないでしょうか。


治る・・って・・。


別に、治さなくてもいいんじゃないでしょうか、場合によっては。



不登校関係の専門家、もしくは、支援者のアプローチって、


大きく二つに分かれるように思います。


「登校出来るようになる」っていうのがゴール、


という風に見るスタイル。


「登校しなくてもいいじゃん」っていうスタイル。


正直、どっちでも良いような気がしてるんですよね。


本人の望む方で。



でもこれが、本人の望み(希望)と言っても、


それが純粋に本人の希望なのかどうか、


分からない場合も、けっこうある様に思います。



それこそ、これもインスタの投稿でしたが、


なかなか衝撃的な映像を見たんですよ。


年長さん3人くらいを、その投稿の作成者が、


ランドセルをいっぱい並べてあるところに連れて行くんですね。


今、すごく色とかも種類が多いですよね。


30種類くらいあったかな?


で、「どのランドセルがほしい?」って聞くのです。


で、その子供たちの両親は、別室でモニタリングしてます。


子供たちは、親から特に希望を聞いてなくても、


ほぼ、両親の期待に沿ったものを選びます。


「男の子だから黒」とか


「汚れにくいからブラウン」とか。


親は、「あ、そうそう、それだよね」って見てる。


で。


その後。


投稿者(撮影者)が、もう一度聞くのです。


「自分が本当にほしいのはどれ?」って。


そうすると、黒を選んだ子は紺だったり。


汚れにくいブラウンを選んだ子は、本当は白だったり。


親御さんたち、びっくりしてました。


子供たちって、言わなくても、


親の思いを汲んで、察しているんですよね、


自分がどうふるまってほしいのか、小さくてもわかってる。



そういうことが、不登校でもあるんじゃないかと思うんですよね。


自分は本当は行きたくはないけど、


お母さんが、お父さんが、行ってほしいと思ってるから


行かなくちゃ、って。


もはや、どっちが本当の気持ちか、


自分でもよくわかんなくなってる、とか、


あるんじゃないかって。



そこら辺のことを思いながら、不登校が「治る」って


なんとなく「親から(大人から)目線」なように感じたのですが・・


いかがでしょう?


私の気のせいかな?



結果、学校に行っても行かなくても、


どちらでもいいのだけれど、


学び続けることだけはした方がいいよね、


というのが、私の変らない考えです。



そして、同時に、


「自分の本当の気持ち」っていうのも


わかったほうが良いよね、


というのも、またもうひとつ、


変らない考えです。





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子供の頃、読書感想文を書くのが得意だった和香葉先生が、夏休みに読書感想文に悩む子供たちに、また親御さんに向けて、こうすると書き易いですよ、というヒントをお話して下さいましたので、動画でお届けいたします。




○ 本の選び方。

○ いきなり清書はNG、別の紙に草稿を書く。




○ 「あらすじ」ではなく「感想」を書くということ。

○ 感想を引き出す問い。




○ 上級編|本のタイトル、書き出し

○ 読書感想文の秘密




先日、娘(中1)の担任の先生と面談がありました。


今回は二者面談で、先生と私だけ。



最初はとても張り切って、


「中学から生まれ変わるんだ!」くらいの勢いで


元気に通っていた娘でしたが


いつの間にか、


なんだか気合が入らなくなって


だんだん学校に行くのがつらくなってきた


一学期の終わりごろでした。



担任の先生には、毎日お電話頂き、


ご心配をおかけしました。



なんと言っていいのやら・・


でもまあ、思っていることを言うしかないよね、


と思いながら、行きました。



正直に、今までの経緯やら、


私の思いなどもお伝えしました。



不登校についての理解は深まってきているとはいえ、


先生によっては「どう思われるんだろう?」というような


私の思いや考えです。




・できれば学校には行ってほしいけど、

行かなくても元気で学んでくれればいいと思っている



・葛藤の時間が長すぎて、それで消耗してしまって

半日以上何も出来ない時があるので、

いっそのこと、早い時間に行くのを止めるか、

行かない日や、行かない期間を決めたほうがいいのかとも思う



・そもそも、中学校で今やっている勉強って

大人になって何もほとんど役に立たないと思っている


とか。



正直に話しました。



で、ついでに、



私も不登校気味だったこととか、


死のうと思いつめたことがあるとか


そんなこともお話しました。



若い女性の先生なんですけど、凄いなと思ったのは。



何を言っても動じないんですね。


本当に。


無表情とかではないんですけど、


穏やかに聴いてるんですけど。



私なんか、ついリアクションしちゃうほうなんですけど、


先生は、常に同じ調子で穏やかに


「はい」


と答えてくださる感じで。



多分あの調子だと、例えば、


「実は私、背中に龍の刺青をいれてまして」


と言っても、


「実はうち、来週引っ越すんです」


と言っても、


たぶん同じ調子で


「はい」


と言ってくださるんじゃないかな、という。


ここまで動じない方って、珍しいなと思いました。


時々、情緒不安定になる娘には


常に安定して対応して下さることは


心強いことのようです。


そういう方が担任でよかったです。



実は、渡せたら渡したいと思って、


持参したものがありました。



それは、このブログにも載せた、「5月の詩」です。



それは、おそれおおくも、


この担任の先生(国語)の授業参観の様子を見て、


私が書いた作品なのです。



先生には、


「あの、実は私、プチ詩人でして。


授業参観を拝見して、詩を書いたんです。


あの、これ、作品なんで。


先生のことをディスってるとかではないので!


指導要領とかあるのも知ってますんで!


・・ただ。


自分が、高校時代に、本当に生きるのが辛くなった時に、


自分には、宗教と、詩っていう、二つの支えがあって、


それでなんとか生き延びることが出来たんですね。


詩は、銀色夏生さんっていう方の、


「このワガママな僕たちを」っていう詩集を見て、


手書きだし字は汚いし、落書きみたいな本なんですけど、


それを見て、「こんなんでもいいのか」と思って、


書き始めたのが初めでした。


自分が「自分の思いを書くこと」によって命を救われたので、


やっぱり、そういうことを、学生の時に


できたら経験させてあげてほしいんです。


だから、いつか、できれば、「詩を書く」授業を


子供たちにやってあげてください。」



とお願いして、「5月の詩」を渡してきました。



ここでいろいろと教育のことについて述べていても、


自分ひとりで考えてるよりは遥かにましですけど、


やっぱり、現場の先生に伝えるのが一番だと思うんですよね。


年に数回しかないことだし、


下手したら、この先生とこういう話が出来るのは


一生に一回しかないかもしれないし。


そう思って、思い切って、


いろいろなことをお話したり、


書いたものをお渡ししたりしてきました。



自分ひとりの力は小さくても、


もしそれを受け取ってくださった方が、


それを少しでも大事に思ってくださって、


それを少しでも生かそうと思って下さったら、


そこからまた、生まれてくるものもあるかもしれないし。



なにもやらなかったら、変な人にも思われないけど、


逆に、何も起こらないわけだし。



自分の生き方としては、やはり、


迷った時には「挑む」方を取っていきたいし。



ドキドキしたけど、やってみようと思ったことができて、


良かったなあと思っています。



繰り返しになりますが、先生にお渡しした「五月の詩」、


下に貼り付けておきます。




~詩の力~


授業参観は詩の授業だった


倒置法とか擬人法とか

詩の鑑賞文の書き方とか


もはやそんなものはどうでもいいのだ


君の胸の中にある

葛藤を

衝動を

情熱を

ただひたすらに文字にするのだ


君のその思いを表わす言葉は

この分厚い国語辞典の中にあるか

その中の単語で表しきれない時には

自分だけの言葉を作るのだ

その時が擬人法や倒置法の出番だ


たくさんのことにぶつかれ

たくさんの問いを持て

たくさんの物語を読め

たくさんの歌を歌い

たくさんの歌詞を味わえ

その中から

君の 君だけの詩が立ち上がる


詩は情熱だ

メッセージだ

この世界にのこす遺言だ


鑑賞文なんていう

悠長なものを書いている隙はない


人から人の胸へと 響き 届くもの

胸から胸へ共鳴する鼓動

行間からテレパシーで伝わる想い


それが詩の力だ







cyugakusei



タイトルにもしましたが、要するに、


「中学・高校で、本当は何を学ぶべきなんだろう。」


という話ですね。



これはもう、私のライフワークと言ってもいいくらい、


ずっと何十年も考え続けているテーマなんですけども。



先日、インスタで


サンドイッチマンの富沢さんの名言集の中にこんな言葉があったんです。


「自分は大人になってから


円の面積の求め方を


教わったこともなければ


教えたこともない」


正確な言葉かどうかは、ちょっとわからないです。


もしかしたら、「使ったことはない」だったかもしれないです。


でも要するに、「大人になって必要ないよね?」という


ニュアンスだったと思います。


小学校で習う、円の面積でさえ、そうですよ?


っていうか、私も、実際の日常生活の中で、


円の面積を求めたことはないんじゃないかと思います。



まあ、ある意味では、そんなことばっかり勉強してるわけですよ、


中学校以上は。


理由は、並べれば、並べられるでしょう。


教養だから、人類の叡智だから、いろいろな専門分野の基本だから。


それと向き合うことで、根性や根気がつく、とかは理由にはなりません。


だって、それは、別のものでも良いわけだから。


作業とか、農業とか、そういうものでも、根気や根性はつくから。


なんなら、そういう「働く系」のことでも、


創意工夫や論理的に考えつめる、ということも、


磨かれていくこともあるでしょう。



ほんと、ぶっちゃけ、言わせてもらいますけど。


大人になって全くに近いくらい、使わないものを、


何でも覚えられる10代の時に散々学ばされるって、どうなの?!


って、思いません?


そう思う私がおかしいんでしょうかね?


どうせなら、頭の柔らかいこの時期に、


役に立つことを中心に学んだらどうなんだ?と思うんですけど。



で。


「大人になって役に立つこと」って何よ?


と、これもずっと考えてるんですけど。



いろんな大人がいて、いろんな職種があるので、


どの人にも役に立つ、っていうことはないでしょう。


でも、はるかに「円の面積の求め方」よりは、


ずっとたくさんの人が使うであろうもの。



それは、「大人」になった人が、


今、お金を払ってでも学ぼうとしているもの、


っていうのが、一つの答えなんじゃないかと思うのです。



私から見えている範囲ではですが、


心理学、カウンセリング、コーチング、投資、マーケティング、


政治、健康、介護、保育、料理、ダイエット、ヨガ、


スピリチュアル、話し方、伝え方、


コミニケーションスキル、文章術(ライティング)、


ホームページ作成、インスタ等の運用、・・そんな感じですか?


あ、占星術とかもありますけど!



それらを、学びたい!と思うものを、


そういうのを教えたい人は山ほどいるわけで、


居すぎて仕事にあぶれてるほどなので、


学校に呼んで教えてもらったらどうなんでしょう?



だいたい、物事というのは、


何かを変えると、欠けてしまう部分も出てきます。


それにしても、そこと天秤にかけたとしても、


「あの、中学でやったアレ、めちゃ教えてもらってよかったわ!


めっちゃ今、役に立ちまくってる!!」


というのが、1万倍くらいになるんじゃないかと思うんですけどねえ。



なんで何十年も、(百年近くも?)


ずーっと、学校教育で教えていることは、


ほとんど同じなんだろう。



なんで、誰もそもそもそこについて、


疑問に思ったり、話し合ったりしないんだろう。



すぐにどうこうするのは難しかったとしても、


草の根で、みんなで話し合っていくことが、


何かの動きにつながるのではないか、という気もするのです。


良かったら、なにかコメントいただけると嬉しいです^^☆





不登校俳句。

2024年07月16日


友人に誘われて、何年か俳句なんぞ詠んでおりました。


毎月、小さい会に投稿していたのですが、


いつの間にかその会もお休みになり、


投稿を急かされることもなくなって、


なんとなく私も俳句から縁遠くなっていました。



が。


先日、「プレバト!」という番組で俳句の添削をされている、


「夏井いつき」さんと、「糸井重里」さんの対談を


「ほぼ日刊イトイ新聞」で見まして、


(とりあえず、5.7.5に突っ込んで、


季語を入れとけばOkなんだよなあ。


久しぶりに書いてみるかなあ、俳句・・)


と思って、いくつか詠んでみました。


上手いか下手かはわかりませんが、


共感してくださる人がいたら嬉しいなと思います。




haiku




今回は「不登校」シリーズです。




炎天下 娘と歩く 図書館へ





夢探し 夏休み前の 母娘かな





蝉と娘 共に歌ひぬ 平日の午後





七夕の願い迷えど「健やかに」





裾上げて自分で着たり 花浴衣





一学期 ラストスパート 葛藤中





夏休み 心の準備ないままに





夏休み 葛藤も休みの親子です








子育て



今日、本を読んでいて、衝撃の事実を知りました。


なんと、


「母親に向いている女性」は約27%しかいないと!


まあ、いろいろな指標や見方があるとは思いますが、


一旦、この本の筋で、お伝えしますね。


読んでいた本は、


「ちゃんと「やる気」のだせる子に」 田中喜美子 NMS研究会 PHP研究所


という本です。


上記の数字には「おおっ!?なんじゃこれは」と思いましたが、


解説を読むうちに、


「ふむふむ、なるほど、そうかも・・」と思いました。


じゃあ、まず、どういう女性が、


「子育てに向いている」のか。


NMS研究会の「データに見る子育ての問題点」から解読すると、


向いている人には、基本的な特徴が3つあるそうです。


1 他人の面倒見が良い


2 のんきでおおらか


3 家事を手早に片付けることができる


だそうです。


確かに。


実感から言っても、それはそうだわ、と思います。



しかし!


ここに重大な落とし穴?があるのです。


この3項目は、「矛盾しがち」ということです。


特に、2と3は、矛盾しがちだと思います。


「のんきでおおらか」な性格の人は、だいたい動きもゆっくりでしょう。


だから、「家事を手早くできる」ってわけには、なかなか・・。


逆に、「家事を早く片付ける」人は、「のんきでおおらか」じゃない


確率が高いでしょうねえ・・。


私は、1と2が強めで、3に欠けるタイプ。


私の母なんかは、2が欠けていて、1はまあまあ、3は満点です!


そんなこんなで、この3つが、「いい感じに全部そろっている」


という女性が、27%しかいないっていうのも、うなずけます。


逆にいうと、私もそうなんですけど、


「特段向いてるわけじゃない」のに、


世のお母さん方のおそらく7割の人は、


それなりに苦しい部分を抱えつつ、


みんな良く頑張っているなあと思うのです。


この三つは、どれかを強化しようと頑張ると、


他が崩れてしまいそうになる、という


ある種の絶妙なバランスの上に成り立っているようにも思えます。



そして、この文章の締めとしては、


自分自身が、


『まず「幸せな母親」になることが、


幸福な子どもを育てるために何よりも必要だということを、


ぜひ覚えておいていただきたいと思うのです。』


という文で締められています。


本当にそうだなと思います。


結局、いろいろな細かいことを言えど、


親は子どもに、最終的に望むのは


「幸せになってほしい」ということなのではないかと思います。


「親の背を見て子は育つ」と言いますからね。


まずは、「完璧な親」じゃなくてもいいから、


自分が幸せにならないと。


自分が幸せな背中を見せてあげないことには、


子どもも、「幸せって、どいういうのだっけ?」


ということになりかねません。


これは、子育てをしていない人にも


通じる話だと思います。



配偶者のいる人、


恋人のいる人、


会社等の人間関係の中にある人。


私たちみたいに、起業したりして、


しかも占い師とかみたいな


人に幸せになってもらいたいと願うような仕事の人は、


なおさらだと思います。



まず、自分が幸せでなくちゃ。


自分で、自分を癒したり、褒めたりして、


ちゃんと自分を満たしてあげること。



ママさんも、その他の方々も、


向いていることばかりじゃなかったとしても、


皆さんその中で、よく頑張っていると思います。


たまには、自分をゆっくりほめてあげてください。



自分に優しい気持ちになれることが、


きっと、子どもにも、周りの人達にも


優しくできることに、つながり、


自分も含め、みんなの幸せに


つながっていくと思います^^☆




占い依存解消・自分の心を見つめる占い


「アストロラーベ」の鳴海和香葉です!


いつもご覧頂き、ありがとうございます!


占い業は相談業ですので、


日々、いろいろな世の中の悩みごとや、


気になることについて、


研究、発信しています☆



今日は、タイトルが、クイズ形式になってますけど。


さて。


○○ に当てはまるものは、なんでしょうか?


1・糖質


2・習いごと


3・スマホ


4・昼寝


わかりましたか?


正解は・・3です!


(ちなみに、1.2.4については検証してないので、

・・多分違うと思います(笑))



正直に言っちゃうと、3の、スマホについても、


大規模な実証実験とかしたわけではないので、


いろいろと自分なりに観察、考察をしてみて


どうやらそうなんじゃないか、という話なんですが。


なんでそういう結論に至ったのか、というのを、


良かったら聞いていただければと思います。



まず、「学ぶ」って、何だろうか、という


前提としての問いですね。


まず、小中学生のお子さんをお持ちの方なら、


ここで、「国数英理社」とか、出てくるわけじゃないですか。


でも、それって「学ぶ」の、氷山の一角なんですよね。


本来的には、もっともっと、ずっとその前から、


もっともっと物凄く広い範囲で、


「学ぶ」っていうことは、行われているわけです。



もう、赤ちゃんの時からですね。


言葉はもちろんですけど、


人ってああやって歩くものなんだ、とか、


泣けば来てくれるんだ、とか


袋を破くと美味しいものが入ってるんだとか(笑)、


まあ、いろんなことを学ぶわけです。


そうして、そのうち、あちこちを指差して、


「あれは?」「あれは?」って


名前を聞きたがる。


「ワンワンだね~」「にゃんにゃんだね~」


「これは、コップだよ」


「・・これ、ぽっく?」


とか言って、


(この「ぽっく」は、娘の口癖でしたが)


なんでも名前を知りたいわけです。



で、もう、3歳くらいになったら大変ですよ。


怒涛の質問攻めですよ。



「なんで空は青いの?」


「なんで雲は白いの?」


「なんで鳥は空を飛ぶの?」


「なんでサンタさんぼくの家を知ってるの?」


・・いろいろ、どうやって答えたら良いだろうと


思うようなこともありますけども(笑)。



これって、物凄い学習意欲だと思うんですよね。



そう思ったら、


そうか!


人間って、元々、知らないことを、


「知りたい!知りたい!」っていう、


凄く高い学習意欲を持って生まれてきている生き物なんだ!


と思ったわけですね。



で、どうしてそれが、学習意欲に結びつかないか。


ひとつには、それが


「興味のないこと」だからです。


どうしたら、もっと興味を持てるようになるか、


というのも、これはとても大切な問題であると思います。


・・が、今日は、そっちではない視点から。



「知りたい!」


っていうのは、ある種の「飢え」だと思うんですよね。


知の「飢餓状態」っていうのかな。


赤ちゃんとか小さい子を見ていると、


多分それが本来の人間の、ナチュラルな状態なんじゃないかなと。



で、いわゆる「学校の勉強」っていうのは、


無駄なく効率よく栄養が取れるようにってことで、


食べ物をサプリメントとか、カロリーメイトとか、


そんなようなものに加工してるものだと思うのです。


だから、栄養はあるし効率も良いけど、


あんまり美味しくはないですよね。


だけど、おなかがすいてれば、


まあなんとか、それなりに食べられる。



本や漫画なんかは、もっと「素材」に近いですかね。


あと、実際の体験とかね。


「やきいも」とか「大根サラダ」とか、


栄養が偏ってたりするけど、そのものが美味しい、みたいな。



スマホからの情報って、


大体の場合、本などよりも


もっと、広くて、浅いんですよね。



(今は、電子書籍もありますし、


なんなら論文とかもネットで読めますが、


ふつうの生活のシーンの中で、


子ども達がネットでどういう情報に触れていることが


多いか、っていう話ですね)



やっぱり、本は、編集や校正などの手も入っていて、


何年という時間をかけて書かれているものも多いので、


圧倒的にネットの情報よりも、重厚感があります。


そして、体験には、圧倒的な、「体感」があります。



だから、いわば、今の子ども達は、


カロリーメイトでもなければ、


重厚感のある素材の美味しさを感じられるものでもない、


ネットからの情報


つまり、そんなに栄養があるわけでもないし、


深みもないし、っていうような、


安ーいおやつ、


みたいなものを、日々、延々と食べ続けているんだと思ったんです。


脳に、ね。


で、もうそれで、おなかいっぱい。(脳がいっぱい)



飢え感がないから、「何か知りたい!」とかもない。


仮に「知りたい!」が出てきて、


それをスマホで調べてみても、


それなりには答えは出てくるけれど、


やっぱり本を読むのとは違って、


自分で体験するのとも違って、


格段に浅い答えになる。



私たちが子供の頃は、テレビだって一日中楽しい番組を


やってるわけじゃないから、


「つまんないな~、なんかやるか!」


って、自分で何か考えてやろうかな、という


強引にクリエイティブさを発揮しなくてはつまらん、みたいな


シーンが、よくあった気がするんですが、


今は、スマホ一台で、ゲームはできる、友達とチャットはできる、


音楽は聴ける、好きな動画は見放題、ってことで、


何時間でも潰せてしまいますからね。



ほんと、怖いですよ、スマホ。


便利ですけど、それ以上に、


その怖さを、大人も子どもも、自覚しないといかんなと


思っております。



本が好きな私としては、


やっぱりできれば子どもにも本を読んでもらいたくて、


だいたい、図書館に行くと、


子供用にも本を借りてきます。


けど、読みませんね。


スマホがある限り(苦笑)。



だから、「スマホは1日2時間まで!」とか


「学校休んだ日は終日スマホもお休み!」とか


なんやかんや、理由をつけては取り上げていますが、


そうすると、たまに読んでますね、本。



そんな、小さいけれども観察の中から生まれた、


今日のタイトルと、この記事でした。



私、人生にほとんど後悔とかしない性質なんですけど、


それでも、過去に戻ってやりなおせるとしたら、


子ども達にスマホを渡す直前に戻りたい、と思うことは


多々有りました。



よく、「子どもにスマホを渡す前に」


というような話がありますが、


うちは、何も話し合わなかったんです。



それが、パパが使っていた携帯を買い換える時に、


今まで使っていたスマホを、


(電話もメールも出来ない状態だったので)


ゲーム等をするためのおもちゃとして渡してしまったのが


始まりでした。



同じようなご家庭も、あるかもしれませんね。


通信機器としてのスマホではなくても、


スマホの強すぎる魅力というのは


充分に中毒性がありますので、


そのところ、どうぞ、


充分に話し合ってから渡してください。


私みたいに、あとからさんざん後悔しないように。



そして、すでにスマホをお子さんに渡しているお家でも。


知り合いの中学生でも、


「スマホがないと落ち着かない」


「触らずにはいられない」


というような、強めの依存傾向を持つ子が


何人か見られます。


調査によってばらつきはありますが、


100万人近くの中高生が「スマホ依存」というような


報告もありますので、


どうか、気にしてあげたり、親子で話し合ったりして、


貴重な青春時代の「時間」と「知りたい!」気持ちの大部分を、


あの小さな四角い板に吸い取られないようにしてあげてくださいね。






9



我ながら、凄いタイトルです(笑)。


ちなみに、これは、絵本作家の五味太郎さんの言葉です。


時々、このブログの記事にも引用させていただいていますが、


私は五味太郎さんが大好きです。


絵本(作品)も好きですが、彼の考え方の、


とても本質的な、筋が通ったところも大好きです。



彼の娘さんが、「学校に行きたくない」


と言い出したことがあったそうです。


太郎さんは、「その気持ち、よくわかる」と思って、


「それじゃ、自分で学びなさい。


でも、学校にも心配をかけてはいけないから、


毎週金曜日に、校長先生に挨拶に行きなさい」と言って。


娘さんは、実にのびのびと不登校、というか、


家で自分なりに学んで、暮らしたそうです。


ちなみに、太郎さんのお父さんも相当おもしろい人で、


太郎さんが漢字練習で同じ字を何回も書いていると、


「そんなの、カーボン紙でやればいいのに」と


言っていたそうです(笑)。



そういう背景があっての、五味太郎さんの


今日のタイトルの台詞、


「義務教育の9年間を返してほしい」


なわけです。





不登校とか、不登校気味のお子さん、


その親御さんにとっては、


学校や教育っていうのは、いつも頭の中を


ぐるぐるしちゃう問題だと思います。




でも、いつもお伝えしているように。


見失ってはならないことは、たったひとつ。


教育の目的は、


「大人になって、自分でご飯を食べられて、


社会と繋がって生きていけること」


だと思うんですよね。




そうすると、学校で学んでいることのうち、


「授業」っていうところでいうと、


どれだけ、実際に社会で役に立つのか?


という部分でいうと、


中学生以上は、もはやいらないんでは?と


思う部分もあるんですよね。




いや、必要な部分はありますよ。


電気工事士とか、設計士とか、数学が必要です。


科学者になるには、理科が必要です。


外交官になるには、歴史も地理も必要でしょう。



でも、例えば、歌手になるのに、


主要5科目はそんなに必要でしょうか?


植木屋になるのに、古文とか数学とか必要でしょうか?


いや、もしかしたら、すごく深く掘っていくと、


植木屋も、歴史とか、美術とか、必要よね、っていう世界は


あると思います。




けど、これを読んでいるあなた自身が、


中学で覚えた、数学の公式、それと、歴史の年号、


あと、全国の川の名前、あと古文の活用形・・


あれ、めっちゃ役に立ったわ・・


とか、あります?


ちなみに、私は無いです(笑)。





数学は頭の体操、とか、時々聞きますけど、「


確かに、たまに子どもの問題とかやってみると、


いつもは使っていない脳の部分を使っているのがわかる気がするから、


それもわかる気がするんですけど、


それだったら、もっと日常に役に立つような


「頭の体操」の授業をしてくれないかなと思うんですが、


まだ、日本の教育がそこまで追いついていないんでしょうね。




例えば、学校に行っていなくても、


お子さんが、こういうタイプの場合、ですね。




自分が学びたいことがある!


知りたいことが沢山ある!


学校の授業とか、つまらないことを頭に押し込んでる場合じゃない!




そういう子は、そういう「博士ちゃん」みたいな子は、


私の考えから言えばですけど、


そこをひたすらに、掘って、掘って、


掘りぬいていけばいいんじゃないかと。


そうしたら、掘りぬいた先には、他の学びにも


繋がっていく、広がりのある世界があると思っているんです。




そういう子は、今日のタイトルの


「義務教育の9年間を返してほしい!」


という台詞を、言っても良いような気がするんです。





でも、そこまでの迫力で、


「私これやりたいから、学校の勉強なんかしてる場合じゃない!」


っていう子どもって、どれだけいるんだろう、とも思います。




そこらへんが、ひとつ、


「学校の勉強やだ」っていうことの替わりに、


「じゃあ、他に何が?」っていう、親の悩みなのかなと思います。





じゃあ、なぜ「学校の勉強が嫌い」な上に


「博士ちゃん」にもなれないのか、


そのあたりについては、また別の機会にお伝えできればと思います。




hitoribocchi



先日、ある学生さんの相談を受けました。


女の子です。



彼女は、学校に行きたくないとのこと。



話を聞いていると、


「学校に行く、楽しみがない」と言いました。


よく聞いてみると、部活は楽しいとのことだったんですが、


その日は、部活がない日だったんですね。


部活以外に楽しみにできることがないから、


部活のない日は、何を楽しみに学校に行ったらいいか、


わからないようでした。



授業は? 給食は? 休み時間は?


などと細かく聞いていくと、彼女は、


「休み時間は、私、「ぼっち」なんですよ」と。


「ぼっち」っていうのは、「ひとりぼっち」ってことですね。



さて、これを読んでる子育て中のお母さん。


もしくは、カウンセラーさん。


次は、どう出ますか?



うっかりやりがちかなと思うのは、


(そうか~、ひとりぼっちなのか・・。


それで、寂しくて、学校に行くのがつまらないんだな・・。


よし、休み時間が楽しく過ごせるように、


なんとかお友達を作れるように、持っていってみようか。)


という導き方。


結構、ありがちなパターンかなと思います。



でも、実際には、外から見て「ぼっち」じゃなくても、


楽しそうに友達と休み時間にワイワイ盛り上がっていても、


心中は穏やかではない、という例も知っているので、


そして、「ぼっち」に見えても、実はその子なりに


かなり充実して過ごしている例もあるので、


私は、彼女に聞きました。


「ぼっちは、いやなの?」って。


すると、


「別に嫌じゃないです。


学校は勉強しに行くところだと思っているから」


その後も、いろいろと話を聴いていると、


問題は、「授業が楽しいと思えない」ということのように


感じました。


まあ、授業って、本人が知りたいこと、学びたいことでは


なかったりするから、仕方ない部分もあるんですけどね・・。


でも、「技術」で、釘とかなづちで作業!とか楽しいようなので、


彼女なりに、何か別の教科の中にも、


そういう楽しみを見つけられたら良いのかなと感じました。


もしくは、授業じゃなくても、友達とのお喋りじゃなくても、


それ以外の、何か、楽しみ。


ちなみに私は、小学校の時のやすらぎの場は、


用務員さんとのおしゃべり。


高校のときは、倫理の先生とのおしゃべり、


警備員室、もしくは保健室。


そういうのでも、良いとおもうんですよね。


人間観察でも良いでしょうし、


先生とのおしゃべりでも良いでしょうし。


博史先生なんかは、学生時代は、


休み時間はひたすら本を読み倒していたそうですよ。



教育の話は深くて、話し始めるときりも果てもないのですが、


とりあえず、今日の話を一言でまとめちゃうと、


「ぼっち」が悪い(悲しい)こととも限らないんじゃない?


ってことと、


そういう思い込みで、そっち側へ導くような話し方をしないように


ちゃんと本人の、そのままの気持ちを確認することが大事


ってことでした。



何か、活用して頂ければ嬉しいです^^☆





博史先生の語り。

2024年06月03日



kousha



時々、博史先生と、教育の問題について話します。


今日もそんなことを話してまして、


博史先生がこんなことを言いました。



「僕の中のインナーチャイルド(インナー中学生)が、


もし、先生に、こういう風に言ってもらえたら、


中学校の理不尽さも納得いったのに、という台詞があります。


(先生に、正直に、こういう風に言ってほしかった、ということ)」



私も、そうそう!と思うのですが、なかなか言葉になりきらなかった。


それを、博史先生が、上手に言語化してくださいました。


めっちゃ、正直すぎる先生が、


本音で、生徒に語りかけるイメージですね。



「世の中はそもそも理不尽の塊なんだ。


学校生活の中でいろいろな理不尽を目にする事があると思うけれど、


それは学校というものが、この社会の一部である以上、


仕方の無い事でもあるんだ。


君たちが勉強していることは、


教科書の内容を読んだり書いたりすることだけではなくて、


この社会のゆがみやひずみ、理不尽さというものを、


それと同時に感じ取り、学べる環境でもあると思うんだ。


だから、学校生活で感じた世の中の理不尽さというものを、


社会に出た時に、おそらくさらに目にする事になって


苦しむ場面もあると思うけれど、


その時、僕たちが生きているこの社会を、


どうしていったらいいのだろう、とか、


私にはなにができるのだろう、


ということを考えられる人になって欲しい。」



「学校で教わることの多くは、おそらくあまり役には立たない。


実際に役に立つのは、そのうちのほんの数パーセントだと思います。


人間はとても価値があると感じていることを学ぶことは楽しい。


価値があるのかどうかがあやふやであったり、


無知ながらにも、


これはおそらく役に立たないとわかっていることを学ぶことは、


誰にとっても苦痛を感じさせるものなのだ。


それはそうなんだけれども、学校で今、できる体制としては


こういう形しか難しいんだよな。ごめんな。」



と、このくらい言ってくれたら、


中学校で、なんだが引っかかっていた違和感とかも、


和らぎましたよねえ~、と。


二人で話していました。



これに限らず、


私はあらゆることに、微妙に引っかかって、


疑問を持つ人なんですけど、


どんな事を聞いても、大概、95%くらい


博史先生は答えてくれます。


それだけ、いつも日常を観察して、分析して、


自分の中で答えを蓄えています。



博史先生は、私に訊かれて、


初めて自分の中にその答えを持っていたと気づくことも


結構あるようです。



何か、


モヤッとしているあのことについて訊いてみたい方、


上手に言語化してくれる、


仙人のような、森のふくろうのような、


博史先生に、気軽にお電話いただければと思います!





知的障がいを持つ次男、今、高校二年生なのですが、


中学校の時に、こんなことがありました。



中学校に入学した時に、「若草」という特別支援のクラスに


入れていただいたのですが、そこに、2学年上の先輩がいました。


男の子でしたが、仮にB先輩としましょう。


B先輩は、数学(算数)が苦手でした。


うちの次男はかけ算九九はできるのですが、


B先輩は、できませんでした。



個人面談の時に、担任の先生は、次男と私に言いました。


「君は、かけ算九九が出来ます。B先輩は、できないです。


でも、そのことと、「働く」っていう感覚を持つ、というのは


別の話なんです。


例えば、昨日、きみに、「働く時に、何が大切ですか?」と聞いた時に


「分かりません」って言ったよね。


B先輩に同じ事を聞くと、


「遅刻しないこと、さぼらないで集中して作業すること、


わからないことは聞く」


って、そういう答えが返ってくるんですね。


そして、「働いて、お金を貯めて、好きなものを買いたい」って言うんです。


「働く」っていうことが、どういうことなのか、


だんだんと具体的に、わかってきてるんですね。


これが大切なんです。


この中学校の3年間で、それを身につけてもらいたいと思っています。」


そのようなことをおっしゃいました。



その時には、いま一つピンと来ませんでしたが、


今になると、本当に良く分かります。



今、知的障がいを持つ、うちの次男は高校二年生。


長女は、中学一年です。


学力的には、長女の方が上です。


長女の方が、言葉も沢山知っているし、人間関係もうまくやりこなします。


しかし。


やはり、「働く」という感覚という部分で言うと、


圧倒的に、次男の方が上なのです。


今、通っている高校(高等学園)が、職業訓練校みたいなところなので、


なおさらに、日々その感覚が磨かれていきます。


「報告・連絡・相談」は、もはや合言葉のようになっています。


「見通しを持って作業をする!」とか、


「わからないことがあったら聞く!」とか


「自分で考えて動くんだよ!」とか


先生からいつも言われていることを、


先生の言っているイントネーションもそのままに(笑)、


我が家でもくりかえし唱えて、


それを家の手伝いにも生かそうとしているのが


伝わってきます。


学校でやっていること、家の手伝い、それらが全て


社会で役に立つことだと、わかってきています。


そして、それは普通の高校では学べないのだということ、


自分は、この高等学園(ほぼ職業訓練校)だからこそ、


そういう「働く」という感覚を、事細かに教えてもらっているということ、


そのことに、感謝の気持ちを持てるようになって来ました。



正直言って、高校を出ても、大学を出ても、


アルバイトでもしない限りは、「働く」ってどんなことか、


どんな感じなのか、分からないと思います。


そのことを学校で教えてもらえるって、本当に良いなと思います。


障がいのあるなしとか関係なく、


これからは学校でも(特に高校・大学・専門等では)


教えていくべきことなのではないかと思います。







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子育てをしていると、子どもの行動を見ていて、このまま行ったら絶対失敗するな~、とわかる時があります。


うちで時々あるのは、上履き洗い。


金曜日に声をかけて洗わない。 土曜日に、「日曜は天気よくないみたいだから、今日洗っちゃえば?」と、声をかけても洗わず。

曇り時々雨、みたいな日曜日の、昼頃に洗ったりして。

まぁ…カラッとは乾きませんよね。 で、若干湿ってて気持ち悪さのある上履きを履くことになる。


で、どうよ?って話なんですね。

いいのかい、本人!?

次回もこれでいいのかい?

ってことなんですね。


失敗して、自分で考えて、次回どうしよう、これが大事な経験なんだと思います。


だから、親が洗ってしまったり、

無理に洗わせるのは、

本人にとって学びが少ないのではと思います。


なんなら、本人が洗いたくないなら、しばらく放っておくのも手だと思います。


たとえば、先々週も、先週も洗ってない、今週も洗わないと言っている。

さぁ、どうしましょう?


友達に「きったねえ~」と言われるかもしれません。

その前に、自分で気がついて、

ヤバいわ〜、と思うかもしれません。


良くない展開パターンとしては、

それでイジメられる、

イジられるとか、

本人が傷ついちゃう、

なんてこともあるかもしれません。


他のパターンだと、

これが、夏休みの宿題なんかの場合も、

悩みますよね。


いつやるのか、

無理にでもやらせた方がいいのか、

本人に任せていいのか、

やらないという選択はありなのか、

やらないままちゃんと開き直って学校に行けるのか、

学校行くのが嫌だ、とか言い出さないか。


コケるまで見る、と言っても、

どこまで見てて大丈夫だろう?という、実際問題もあります。

やはり、命に関わるようなことや、

大ケガをするようなこと、

これは避けるべきでしょう。


現実問題になると、

私も、迷うことは多々ありますが、

基本的な大枠としては、

「命に関わること」

「取り返しのつかないこと」

でなければ、

どんどんいろんな経験をして、

たくさんコケてみたらいいと思っています。


心身共に、すり傷や切り傷、

あざなども作り、

その痛みを知ることで、

人の痛みもわかるようになるでしょう。


何度もコケるうちに、

コケ方もうまくなり、

キズを負わないコケ方が

できるようになるでしょう。

つまり、受け身が上手くできるようになるということですね。


自立するということは、

親掛りでなく、

いろんなことを自分で決めたり、

それが失敗しても立ち直ったり、

人に助けを求めたり、といったことが

できるようになることだと思います。


だから、親がいるうちに、

親の見ていられるうちに、

それをさせてあげることが大事なのではと思います。


それを、親が何でも決めてしまい、

失敗はさせないようにし、

助けを求める前に手を差し伸べてしまったら、

子どもは自立できないまま、

大人になるしかないと思います。


コケたことのない大人が

(挫折を味わったことのない大人が)、

40代とか50代になって、

いきなりそんなことにさらされたら…と思うと…

…非常に心配ですよね。


心がポキッと折れちゃうのではないでしょうか。


何度も何度もコケては、

立ち上がって来た子は強いです。


なんぼコケても、

また立ち上がればいい、

立ち上がることができると、

身にしみて知っているからです。


ついつい、先に先に、

失敗しないようにと、

手を差し伸べてしまう親御さんって

多い気がするんですが、

その子のことをよく観察して、

この辺が限度、というのを見極めて、

放っておけばいいのではないでしょうか。

横目で見つつ。

あ〜、コケるやつだ〜、と思いつつ(笑)。

あー、やっぱりコケたわ〜、

と観察しつつ(笑)。


ある意味楽ですが、

心にはちょっと力がいります。


でも、自分でやってみて、なかなかおすすめの方法です。

子どもに、自分で考えて、

どうにかする力が身についてきます。




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カエルの子はカエルと言いますが、トンビが鷹を生む、ということわざもあります。

たまに、金魚がクジラを産むようなことが、世の中にはあります。

これはなかなか苦しい事態を引き起こします。

能力というよりは、魂のスケール感とでもいいましょうか、それが、親よりも相当大きな子が産まれる場合があります。


たとえば、親は、箸の持ち方が違うとか、教科書が逆さまに本棚に入っているとか、そんなことばかり気にするタイプで、子供は、どうしたら世界は戦争がなくなるのか、なぜ人間は過ちを繰り返すのか、そんなことばかりを考えている、というパターンです。



子どもの方が魂が純粋ですし、大人は生活することに忙しいですから、どうしても、そういう傾向はありますが、その状態がずっと続いていくような場合、これはなかなか子どもにとっては辛いのではないかと思います。



たとえて言えば、金魚鉢の中で、クジラを育てているようなことになります。


「おかあさん、ぼく、もっとしょっぱい水がいいな」と言われても、意味がわかりません。

「頭がムズムズするから、潮を吹いてみたいんだ」といっても、「馬鹿なこと言ってないで、ふわふわキレイに泳ぐ練習をしなさい、そもそもどうしてあなたは赤くないの」と叱られる。


「ぼく、海に行ってみたい」なんて言おうものなら、「あんたはどこまでバカなの!あんな危険なところ!ここなら安全に餌をもらって過ごせるのよ」と、全く取り合ってもらえない。

そんなクジラは、金魚にもなれず、金魚鉢でノイローゼになるか、もしくは家出するしかないと思います。


この場合の解決法は大まかに2つあって、ひとつは親の方が、クジラの心に近づくこと、金魚からクジラの心に、自分の心を育てていくこと。

もうひとつは、それが無理な場合は、金魚鉢という、自分の狭い価値観から解き放って、社会という大海に、放りだしてしまうことです。


そこでは、いろんな危険もあるかもしれませんが、様々な経験や冒険をしながら、クジラの仲間に会える可能性がぐっと高くなります。


100%クジラに会えるとは言い切れませんが、少なくとも、金魚鉢の中で一生を終えるよりは、遥かにクジラの魂は救われるでしょう。



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