授業参観でスタンプの話!?

先日、娘(小6)の授業参観に行ってきました。


その日は、スマホの使い方についての授業!こんなことも学校で教えてくれるんだ!と目からうろこ。


題材は、ある一つのメール。その文面は友達から送られて来たもので、こんな内容でした。


「昨日、うちのおかあさん、スマホと間違えてテレビのリモコンを会社に持って行っちゃったんだよ!」


というもの。


それに対して、もう一人が、「おもしろいね」って答えたというもの。



まず、この「おもしろいね」が、どういう意味なのか。それを考えるところからでした。


「おもしろいね」の意味として


① とってもおもしろい!

② 少しおもしろい

③ ちょっといじわるさを含む(嘲笑する感じ)


どれだと思いますか、っていう。


まず、ここで少し分かれますね。

②が多かったですが、①と③もいました。



次に、スタンプが出てきます。



stump



上の図のようなものです。このうちの、どれを送ったと思いますか?っていう。

(自分ならどれを送りますか、でもいいと思います)


その後、この5種類のスタンプを、上記の①②③の感情の、どれを表していると思うか、というのに当てはめていきます。


全員がそれぞれに記入し終わってから、特に先生が例としてあげたのは、3と4のスタンプでした。確かに、受け取る人にとっては、または、その会話の内容によっては、ちょっと微妙な印象を与えるかも・・というのはありますね・・。


具体的な数字は忘れてしまいましたが、3のスタンプについては、①「とってもおもしろい!」が多く、②少しおもしろいが「数人」、③の「ちょっといじわるさを含む」が②よりも多かったように思います。たぶんそれは、おそらくですが、きつねのような細い目と、相手に向かって指をさしているという印象から、③「いじわるを含む」と答える子もいたのではないかと思います。


4のスタンプについては、①「とってもおもしろい!」が何人かで②よりも多く、②「少しおもしろい」がわずかですが数人、③の「ちょっといじわるさを含む」が一番多かったように思います。


ここで問題になるのは、送信者と受信者の、感覚のズレがあった場合です。たとえば、「とてもおもしろいね!」という意味で送った③のスタンプに対して、相手が「なんだかいじわるだな・・」と感じることもあるわけです。


なるほどな~って思いました。



私は個人的にはスタンプは使わない主義です。個人的なメールの時には簡単な絵文字は使いますが、そんなに多種多様には使わないほうだと思います。そしてこういう文章を書くときには、わずかに顔文字は使いますが、出来るだけ使わないようにしています。


たぶんこれは、私が好きでいつも見ている「ほぼ日イトイ新聞」の糸井重里さんの影響もあると思います。糸井さんは、例えば「おいしい」⇒「おいちい」とか、そうやって言葉の中でふざけたりすることは多々あるのですが、元々がコピーライターで言葉を扱う仕事をなさってきたせいか、「言葉、文字、という中で勝負する。絵文字には逃げない」というような美学を持っているんですね。そういう感じに憧れもあって。



少し話がそれましたが、どうして私はスタンプを使わないか。


それは、ひとつの理由としては、自分の気持ちそのものを表すものではないからです。


「いいね」、にしても、「かなしいね」にしても、絵がいくつかあったとしても、より適切なものがあったとしても、自分の気持ちとはどうしてもズレが出ます。ここまでの「ありがとう」じゃないんだよなあ、とか、そこまで「かなしいね」っていう感じでもないんだけどな・・、とか。この微妙な感じはどうしても表しきれません。その微妙な感じを追おうとすると、いろいろとスタンプを選ぶのが面倒になる。(あ、この「面倒さ」というのも、私がスタンプを使わない理由です)


今まで、なんとなく言語化されないで自分の中にあった、このスタンプに関しての微妙な気持ち、というか、感覚。そこに含まれている問題を、綺麗に可視化して見せてくれた授業でした。


博史先生にこの話をしたら、「僕だったら、その「スマホとリモコンを間違えた」というメールに、どんな返信をするか、というのを、それぞれに考えてもらって、前にそれを貼り出して、みんなでそれを眺める授業をしたい」と言ったので、それもいいなあ!と思いました。



いったんここで「活字」の話をしましょう。


例えば、「ありがとう」を伝える時。そこにどんな想いがこもっているか。店員さんの「ありがとうございます」と、好きな女の子からチョコレートをもらったときの「ありがとう」は、天と地ほどの開きがあるでしょう。でも、それは態度ならわかりやすいものだけれど、文字では伝わりにくい。それでも直筆の文字なら、なんとなく伝わってくるものもあるけれど、活字ではとても伝わりにくい。


だから、「ありがとう」の後に、何かを書き足して、それを補足することがあります。

「ありがとう。本当にありがとう。」とか「ありがとう。少し気持ちが軽くなりました。」とか、あえて、軽くする感じで、「ありがとね~」とか「ありがとっ!」とか。


自分の気持ちを、完璧に言葉に乗せることは出来ません。そして、まあまあうまくそれが乗ったとしても、相手がそれをどう受け取ってくれるかはわかりません。そういう、ちょっとした緊張感の中で、文字のやり取り、特に活字のやりとりはなされるものなのだと思います、本来は。


だから、昔、図書館で借りた「心のチキンスープ」という本の中で、「書いたものを一度、必ず見直せば、人生の何割かの問題は防げる」というような話を読んだのですが、それを私は出来る限り実行しています。簡単なメールでも、送信する前に見直すことにしています。(昔、ちょっとした表現の行き違いで、詳しくは忘れてしまいましたが、たぶん少し雑な表現をしたのだと思います)友達に嫌な思いをさせてしまい、後からたくさん謝ったり弁解しなくてはならなくて、あの1通のメールの言葉を、もう少し丁寧に選べばよかったと後悔したことがあります。


けれど、メールに比べて、ラインはどうしても文章が短くなりがちです。ほとんど反射神経的に、ぽんぽんとやりとりすることが求められるように思います。その中のスタンプですから、そして、その中には、実は、今回の授業でやったような危うさが秘められているわけですから、大変です。なんだか、私の感じている、活字でやり取りする時の「伝わるかな?」という緊張感に似たようなものもあると同時に、それとは違う緊張感もあるような気もします。




ともかくも。何かを得るときに、何かを失うというのはよくある話です。それも、失っていると言う自覚の無いままに、失っているということがあります。


スタンプの場合、活字よりも表現の手軽さを得た分、欠けているのは、「自分の言葉で言葉を紡ぐ」という「表現力」です。それから、「微妙に自分の気持ちとは違うスタンプに自分の気持ちを代弁させてしまう」という「感性」です。


「それでお互いに楽しくやり取りしてるんだからいいじゃん!」って言われれば、そうなのかもと思います。別にそこまでとりたてて、ややこしいことを言わなくてもいいのかもしれません。


ただ、延々と短文でやりとりされるその「ライン」が、はたしてそのやり取りが、本当にお互いにしたいことなのか。その時間が楽しくて充実したものなのか。それとも、面倒だと思いながら、なんとなく寂しいからとか、なんとなくどっちから終わっていいか分からないから、という理由で、だらだらとつながっているなら、それはちょっと考えてみたほうがいいのではと思います。そんなことに時間を無駄に費やすほど、人生って長くないです。(私は人生の半分を過ぎてしまったので、余計にそう感じます)


手紙で、もしくは長いメールで、一言一言、言葉をひねり出しながら、消したり書き直したりしながら、自分の気持ちを言葉に込めようとしていた昔を、懐かしく感じます。


懐古趣味って言われそうですけど、通信手段・伝達手段は新しいとか古いとかの問題ではなく、ただ手段が増えているだけのことだと思います。その中で、自分が好きなもの、心地よいもの、自分が上手く使いこなせるものを選べばいい。そしてそれは「コミニケーション」の手段なのだから、その「コミニケーション」自体が、ただの時間つぶしではなく、充実したものであってほしい。


今はまだ、スマホとかパソコンっていうものを、人間が上手く使っているというよりは、それらに人間が振り回されている感じがします。



思いのほか、いろいろなことを考えさせられた授業参観でした。


そして、こうやって書くことで、さらに深いところまで考えることが出来ました。読んでくださる皆さんがいてくださるので、書く張り合いもあります。


いつもありがとうございます。


よかった、という記事には、右横のハートをぽちっとしてくださると、さらに嬉しさ倍増です。よろしくお願いいたします^^☆


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2023年11月25日

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