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先日の、「勉強ってなんのためにするの?」の続きです。
私は、大学的な勉強を、もっと中学、高校まで
下ろしてきたほうが良いんじゃないかと思っています。
先日、ある市議会議員さん(友人)にその話をしたら、
「確かにそれはありますよね。
僕の友達が「総合高校」っていうところに行ったんです。
そこでは大学みたいに、自分で科目を選べるんですけど、
そこで普通高校では取れない科目を選んで、
結局、今の仕事にそれが結びついてますよ。」
という話をしてくれました。
先日、生活していく中で
「中学校以上の勉強は使わない!」という
結構荒っぽいことを言ってしまいましたが。
もう少していねいにこのことを語るなら、
本当はそうではありません。
例えば、建築士になり、建物の強度、
なんていう話になれば。
出てきますよ。
先日、こんなの使うのか?って言った、
数学の√(ルート)の計算。
それと、「一生使わんだろ!」と何度思ったか知れない、
高校数学の、sin(サイン)・cos(コサイン)・tan(タンジェント)。
使う人はちゃんと使うんですよね、
電気工事士試験の必須項目だって。
「sin(サイン)は正弦波交流の計算に、cos(コサイン)は有効電力を求めるとき、tan(タンジェント)は交流回路の位相角を求めるときなどに使用されています。特に電源として正弦波交流を扱う問題が多い交流回路の計算においては、三角関数が必須」
だって。
なんのことやら、私には全く分かりませんが、
一部の人には確かに必要みたいです。
(こういうことを、私が中学のとき、
「なんのために勉強するの?」って聞いたときに、
先生や親に教えてもらいたかった~!)
そんな風に、きっと私の一生ではほとんど使われることのない、
中学と高校で詰め込まれた(そして今やほとんど忘れた気がする)
膨大な知識の山は、きっと、「何かに」なるのには
必要なものだったのではないかと思います。
電気工事士、建築士、プログラマー、研究者、弁護士、公務員、
その他、私が知らないようなお仕事まで含めての
無数の「何か」
それになれる「可能性」を含むもの
それを、学んでいたんだろうと思います。
で。
それを、そのことを、みなさんはどうとらえますか?
私は、個人的には。
ものすごくはっきり言えば。
あえて、ちょっと極端な言い方をすれば。
「そんなものいらなかった」と思う。
建築士や、電気工事士や、もしくは
数学者や研究者や、それに類する仕事に、
なれるかもしれない可能性を確保しておくために
あんなに大嫌いな数学を、何年も苦しみながら
勉強したんだとしたら。
そんな「可能性」、さっさと捨ててしまいたかったと思う。
そんな話を、先日知人にしたら、その方が、
「自分の子供は、英語が嫌いで、高校は理数系を選んだんです。
英語の時間はなくて、数学や理科のいろいろな科目を勉強してました。
でも、いろいろあって、最終的に今の仕事としては、空港に勤めていて。
必要になったので、それからちゃんと英語を学んだんですよ」って。
そうそう、私が言いたかったのは、それよ!って。
赤ちゃんの時には、たいがい、
「この子は足が強いからサッカー選手になるかな~」とか
「かわいいからアイドルかな~」なんて
好きなこと言ってるじゃないですか。
ほとんどもう、無限大の可能性の塊みたいなものです。
だけど、小学校くらいになってくると、
もうそうはいかなくなってくる。
まだまだかなりの高い確率で、
その後の変更・転向は可能ではあるものの。
気性が、激しいか、穏やかか。
人が好きか、嫌いか、動物が好きか、嫌いか。
運動が好きか、勉強が好きか、
おおらかなのか、きちょうめんなのか・・
おおわくの、「その子らしさ」というのが
どうしても出てきます。
中学卒業の頃には、もっとはっきりと、
その子らしさというのは、かちっと形を成してきます。
だから私は、中学校の卒業式で、来賓の人とかが、
「君たちの無限の可能性を」
とかいう言葉をきくと、正直、やだな、って思う。
中学卒業時、もうある程度の可能性は削られてます、
正直、無限では、全然無いです。
そこから、今まで卓球をやったことがない子が、
オリンピックの卓球の選手になれるということはまずないです。
(スポーツの中でも、卓球ってそういう類のものらしいです)
私が、中3の時点に戻ったとしても、
そこから「数学の先生」になる確率は、限りなく低かったと思います。
博史先生が「公務員」になる確率も低かったでしょうね・・。
私は、可能性、というのは、
どこまでも無限に広がっていくものではないと感じています。
今のところの、私のイメージの中で言えば。
小学校までは、あらゆる可能性を伸ばしていく時期。
中学時代は、それを絞り込んでいく時期。
(部活とかでも、だいたいはあれこれやらないで
ひとつのことを続けていかせることが多いですよね)
絞り込んだ上で、高校を決めて。
高校は・・・
自分の高校時代が暗黒すぎて、
あんまりリアルに想像できないのですが、
可能性を伸ばしたり、絞ったりする時期なのかな?
大学時代もそんな感じでしょうか。
それは、人によってもその時期は違うかもしれませんが。
つまり、私の一番言いたいことは。
可能性は、捨てなければ、ものにならない、ということです。
削り落としていかなくてはダメだ、ということです。
例えば、ごく簡単に言えば、
文型、理系、とあった場合に、
どちらかを捨てて、どちらかに集中するから
ものになっていくわけです。
お医者さんって、実は何科の看板を掲げてもいいって
聞いたことあるんですけど、(確か麻酔科以外)
それだって一人で「なんでも」って、ないじゃないですか。
自分は「産婦人科」だ、とか
「眼科」「皮膚科」「心療内科」とか
せいぜい複数でも「内科・胃腸科・小児科」くらいでしょう。
そうやって、「可能性をバサバサ切り捨てていく」からこそ
残った何かにエネルギーを注げて、
ものになるんだと思います。
日本の教育は、その「可能性を切り捨てる」ということを
させるのが、遅すぎるのではないかと感じています。
要するに、逆に言えば、「好きなことに特化して集中して学ぶ」
という事をするほうが、よっぽど良いと思うんですよね。
そこで切り捨ててしまったものでも、
いくらでも、あとで拾いにいけますからね、
さっきの空港勤めの方のように。
近年、私たちの地域では、高校に職業コースが増えてきて、
それは良いなあと思ってみています。
昨日も小6の娘に、「家庭科(お裁縫とか保育とか)をいっぱい
授業でやる高校あるよ~」と言ったら、
「それいいなあ~!いきたいなあ」と言ってました。
がっちり、教育の話になってしまいましたが。
お子さんのおられない方でも、
今日の話は「可能性」の話です。
可能性だけたくさんあって、
どれも選べてない、っていうことはないでしょうか。
もしくは、ある可能性を削る場面にいらっしゃる方、
逆に、それによって得られるものがあるのでは?
広がる可能性があるのでは?
というお話でもありました。
ものはとらえかたです!
思い方です・・・^^☆
情熱の(笑)教育論は、
まだ続きます。
明日はどうだか分かりませんが、
また語ってまいりますので、
楽しみに読んでいただけましたら嬉しいです^^☆