なぜ「源氏物語」を学ぶのか。


源氏物語



なぜ「源氏物語」を学ぶのだろうと、中高生の時には思っていました。


もう、古文とか、現代人は使わないじゃん、って。


くー・から・くー・かり・しー・きー・かる・けれ・かれ(だったかな?)


とか、古文の活用形とか覚えても、一生使わないじゃん、って。



他にも、学校で学ぶことの中には、そういうことって沢山ありますけど、


この「古文」っていうものも、


「なんでこんなものを学ぶのか?」という


謎の1ピースでありました。



で。


それから20年程がすぎて。


ある時に、はっきりしたタイトルは忘れてしまったのですが、


「2000の願い」というようなタイトルの本に出会ったのです。


それは、自分がやってみたいこと(著者の思いついたもの)が、


ただひたすらに、箇条書きで書いてある本でした。



その「やってみたいことリスト」の中に、


「学生時代にさっぱりわからなかった古典というものが


どうして何百年も残っているのかということを、自分が理解ができるかどうか、


もう一度読み返してみる」


というような言葉があったんですね。


なんだか、素敵だなあ・・と思って、書き抜いておきました。


それで、実際には、全くと言っていいくらい、それから古典には触れていないんですが。


そのあと、いくつかの、パズルのピースのような出来事がありました。



もう7~8年前になりますか、近所に住むおばさまがお出かけのようだったので、


「おでかけですか?どちらまで?」と声をかけたところ、


「本当に、ただの趣味なんですけど、古典を習ってまして。


今、源氏物語をやってるんです。おもしろいんですよ~」って。


とっても品のある方だったんで、


(いや~私みたいなんは、住む世界が違うわ~)と。


ただただ感心して終わっただけなんですけど。



最近もありました。


知り合いのおじいさまが、その方も学のある方なんですが、


「最近は何をやってるときが楽しいんですか?」


と聞いたら、「古典を読んでるときだね~」とか言うわけです。


(出た!古典!私の手の届かないやつだ!)


ということで、続けて質問。


「古典のどこがおもしろいんですか?」


「どこって一言ではいえないよ~」


「そこをなんとか一言で~」


・・人間が描かれているところかなあ。

喜んだり、悲しんだり、馬鹿なことをしたりね。

人間って、昔から変らないんだなあと思うと、ほっとするわけ


みたいなことを、おっしゃってましたね。


私はまだ、古典からはそれを感じられていないんですが、


前に、博物館に行った時には、似たようなことを思いました。


飾ってあるものって、刀とか、器とか、棺おけとか、おもちゃとか、そういうもので。


要するに、人間って昔から、


生まれて、遊んで、年を取って結婚して、子供産んで、戦いをして、


食べて、お酒飲んで、病気なんかして、祈ったりして、死ぬ。


ただひたすら、これを繰り返して来たんだなと。


そして、それは今だってかわらないよね、と。


それと同じようなことを、感じていらっしゃるのかなと思いました。


(文章であるだけに、もっと深いものであると思うのですが)



そしてもって、昨日。


「文藝別冊 永久保存版 河合隼雄」という本を読んでいたんですね。


(河合隼雄さんというのは、日本のカウンセリングの第一人者です)


その本に、出てきたんですよ、「源氏物語」が!



その本の中で、島内景二さんという方が寄稿している『「源氏物語」と日本文化』


という論文?なんですけど。



一部、引用したいと思います。


斜め読みでも構いません。


「源氏物語」って、なんかわからんけど凄いのね~

という感触だけ、味わって頂ければ(笑)。



『「源氏物語」という文学作品がある。

この作品は、喩えて言えば、一本の巨木のような存在である。

ある日ある時、草原のただ中にどこからか「種」が運ばれてきて、発芽した、

太陽光の恵みを受け、土中のさまざまな「養分」を吸い上げることで、すくすくと成長した。成長しつつ形を変えつづけ、遂に現在見られるような姿となった。

見事な開花に引き続いてたくさんの果実を結実させ、それが大地にこぼれ落ちては発芽し、巨木の周囲には無数の「子どもたち」が誕生した。

(中略)

日本文化という大草原に萌え出た草木は膨大なものがあるが、「源氏物語」ほどの巨木は江戸時代まで見当たらない。近代の夏目漱石や森鴎外の林がどこまで育成しているかは「源氏物語」と比較しなければならないが、まだ十分にはなされていない。「源氏物語」を読むことで、どのような日本文化の普遍性を発見できるか、紫式部という文学者の個性にどこまで接近できるか、まさに研究者の腕の見せ所である。それは、「源氏物語」という作品の「母体」を文化史的に定位することで初めて可能となる。あるいは「精神史的」なアプローチと言ってもよかろう。(中略)』


もうちょびっとですからね、頑張って斜めに読んで下さいね(笑)。


『「源氏物語」が他の作品群と決定的に異なる特殊性は、「作品自体が成長し変わり続けた」という側面にある。第一部の華やかな青年の恋愛譚が、第二部では「苦悩する翁」の内面ドラマへと変わり、第三部(宇治十帖)では「第一部と第二部を乗り越え否定する新しい『源氏物語』」の創作が試みられる。一つの作品でありながら、これほど中身が変貌した例は、他にない。作品が変わったのは、「書く」ことによって作者の内面世界が変貌したからである。そして「読む」ことによって、読者の人生も変わってしまう。「源氏物語」を原文で通読し了えた人間は、誰しも読み始める前と異なる「人格」を自分が獲得したことを認識するに違いない。読者を変える力をいつの時代でも変ることなく行使しつづけてきた点にこそ、「源氏物語」の「普遍性」の真髄がある。(後略)』


なんか、凄くないですか。


という雑な言葉で、やっつけて逃げてはいかんですね(笑)。


届かぬながら、もう一息、頑張って自分の言葉で説明してみます。


まあ、要するに、この後の話としては、「河合隼雄」さんというカウンセラー第一人者の方は、この「源氏物語」をユング心理学、という側面から解剖して、源氏物語の中の、この人は、この出来事は、こういう意味をもってるんだ、という説明をしたわけですね。

それが、「紫マンダラ」という本なわけです。


そして、この引用の始めのほうにあった、


『巨木の周囲には無数の「子どもたち」が誕生した。』


という、「子どもたち」、の一つなわけです。「紫マンダラ」は。


おそらく、この引用に載っていた説明(解釈)も、「紫マンダラ」も、無数にある解釈の中の一つなのだと思います。


この「源氏物語」という話は、例えば、「日本文化史」とか「女性史」とか、その他にも、実に様々な側面から研究したり、解剖や解釈などができる、それに耐えうる凄い作品なんだ、という風に、私は理解しました。



学校の先生に、お願いしたいことがあります。


もし、これを見てくださる、先生がいたら。


例えば、源氏物語を教えるとしたら、最初の10分でいいから、こういう話をしてほしいんです。


そこから、生徒達は何十時間も、この「源氏物語」に時間をつぎ込まなくてはならないわけです。なんの意味も感じられずに取り組む子も、たくさんいるでしょう。(わたしもそうでした)


この「くー・から・くー・かり・・」の活用と、自分の人生が、一体どういう関わりがあるのか?

一生古文とかやらないと思うから、何にも関係ないと思うけど?


そうして、意味も訳もわからず、悶々と古文に向き合うわけです。


そうしたら、きっと、何かよほど縁がなければ、一生古典なんか読まないでしょう。



これを読んでくださる先生がいらっしゃいましたら、

どうか、源氏物語を始める時に、


「今日から源氏物語をやります。

はい、教科書の8ページを開いて、○○さん、音読してください」


なんていう風に、始めないで下さい。


「源氏物語」が、どうして長い長い時を越えて生き続け、皆に愛読されているのか。


その秘密を、そして、それを学ぶあなたにも、いつかその秘密がわかる日があるかもしれないことを、少しでもいいから語ってから、授業を始めてほしいのです


今から学んでいく、「源氏物語」(古文)というわけのわからない言葉やストーリー、それがもしかしたら、自分の人生にも関わりがあることなのかもしれない、そう思えるだけで、それを学ぶことの意味を感じられる生徒は、きっと増えると思います。


源氏物語が好きな先生なら、どういう風に好きかを、1時間語ってしまったっていいと思います。


生徒はきっと、将来、「源氏物語」の本文そのものは、ほとんど忘れてしまうかもしれないけれど、先生が「源氏物語」について熱く語っていた、そのことだけは覚えていたりすると思います。


かの有名な金八先生が確かこんなことを言っていました。

「教育というのは、教わったこと全てを忘れても、それでもなお残っているものをいう」と。・・正確かわかりませんが、たしかそんな台詞。


そして、そんな先生の『熱血「源氏物語」論』を聞いた生徒は、きっと年を取って、少し人生が落ち着いた頃、図書館で「源氏物語」を手にとってみる確率が、他の先生に教わった子たちよりも、きっと高くなると思います。


受験に受かるということだけではない。そこまでを見通しての「教育」っていうもんなんじゃないでしょうか。


これは、国語の先生に限ったことではありません。


数学の先生もそうです。


ルートなんて、日常生活で全然使わないのに、どうして勉強しなくちゃいけないのか。


中学で、私がそれを問うた時、先生は誰も答えてくれませんでした。


でも、それから長い長い時間が経って、40も過ぎた頃になって知りました。


電気の技師や、建築家の人は使うんだ、って。


柱の耐震強度とか計算する時に使うんだ、って。


リアルにこの世界で使っているんだと知っていたら、死ぬほど数学が嫌いだった私ですが、もう少し、数学も、おもしろかったのかもしれないな、と思います。


先生方も忙しくて、いちいちそんなこと知らないよ、教えてられないよ、というのが本音かもしれません。


だから、いつもいつもじゃなくてもいいから、時々でもいいから、


「なぜ、これを学ぶのか。どうして、どういう風に、それが役に立つのか。」


そのことを、子供たちに語ってあげてほしいと思います。


そしてそれはきっと、めぐりめぐって、先生自身がお仕事をする上での力にもなるのではと思っています。



30数年前の学生から、あの時言えなかったことを、先生へ。


もし聴いて下さって、そうだなあと思う先生がいてくださったら、


ありがとうございます!!


先生も、子供たちも、楽しく学びあうことができますように^^☆



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