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このところいくつか、五味太郎さんの本から引用させていただいていますが、
その締めとして、「偏差値について」という文章を引用させて頂きます。
その後に、自分の経験や思いなどを書かせていただきます。
偏差値をどうとらえるか
偏差値とは、あるテストを受けた全生徒の中で、
個々の生徒の得点が、全体の中でどのような位置にあるのかを、
標準偏差を導入して表現したものであるんだそうです。
(偏差値の算出方法について具体的に説明してありますが、長いので中略)
こんなわけのわからない評価法を、
わけのわからないまま大手を振って歩きまわらせている、
その責任は教育をしていく側、つまり大人のほうにあるのは明らかですが、
ここではあえて生徒の側の責任を問いたいと思います。
学校を選んで受験する場合の考え方を問いたいのです。
「なんでもいいからどこかの学校に入りたい」
「学校に入りさえすればいいのだ」
「自分は行きたくないけど親が言うから・・・」
「受験に失敗したらはずかしい・・・」
そんな態度の受験そのものを問いたいと思います。
そのなさけない態度の受験生を
なんとかめんどうみましょうとの親心でできたのが、
とりもなおさず偏差値というものなのです。
なんでもいいからどこかに入れるような、
それもなるべく失敗しないような学校選び。
そのための目安。
それが偏差値というものでしょう。
偏差値が問題なのではない。
偏差値なんてものたよりにしている生徒が問題なのです。
自分が行きたいと思った学校に応募者が多ければ入りにくいのはあたりまえ、
失敗なんて話ではないはずです。
あるいはどう考えても理解できないような問題を出す学校は、
こちらから願い下げ、
よもや試験問題は軽くできたところで、
センスがあわなければやっぱりキャンセル。
あるいは、そもそも学力だけで判断するような学校は選ばない。
教師の態度が悪い学校はやめる
。無意味な努力をしなくてはいけなさそうなところは遠慮する。
そんなはっきりした学校選びの態度を持つべきだと思います。
さらに言えば、自分が本当に入りたいと思う学校はどこか、
自分はそこに入って何をしたいのか、
あるいは自分は本当に学校に入りたいのか、
学習、学問を続けたいのか、
その学校が持っている部、クラブなどでしたいということがあるのか、
などなど、もっと積極的に考えてみるべきだと思います。
そして積極的に考えた結果、学校へは行かない、学校は必要ない、
という答えが出ることだって十分ありえると思います。
行きたくなったら、必要を感じたら、そのとき学校へ行くということもありえます。
それがあたりまえになれば、偏差値なんて自然消滅します。
必要ありませんもの。
学校に行っていないとはずかしいから、とか、
いい学校に入れば出世できることになっているから、とか考えて、
それをまた偏差値なんてものをたよりにして右往左往している人がいるとしたら、
その人の「考え方の偏差値」はそうとう低いと言わなくてはなりますまい。
これね、本当に心からそう思いました。
私は、いわゆる偏差値の受験をしました。
それが、自分的には、とても失敗だったと思っています。
そして、子どもが、長男が今、20歳ですけど、
その子が高校受験をする時に、やっぱり偏差値ってものが出てきて、
「まだこの国の教育って、偏差値受験とかやってるんだ!」とびっくりしました。
その理由は、五味さんが上記にとてもうまくまとめてくれています。
私は、中学の時までは(笑)、勉強はトップクラスでした。
なんでかわからないんですけど、やればできました。
で、中3で受験ということになり、
しかし、こういう「どうしてぼうや」な性格は昔からなので、
「そもそも自分は勉強を続けたいのだろうか」から始まるわけです(笑)。
で、でも、一応、高校には行っておいたほうがいいらしい、となって。
で、次は学校選択なわけです。
私、何がやりたいんだろう。
あ、高校では演劇がやりたいな!
演劇部の強いところにいきたい!
将来、何か役に立つものを学びたいな。
商業科とかどうかな?
女子ばかりとかいやだから、共学が良いな。
満員電車とか嫌だから、下り電車がいいな。
セーラー服とか可愛いからいいなあ。
そんな感じで、いくつか候補が上がってきて、
いくつか見学に行きました。
下り電車で通える、セーラー服のM女子高。
共学で演劇部の強いS高校。
商業科のある、めっちゃ近いH高校。
偏差値的にいったら、自分の偏差値よりも、
M女子高は5くらい、S高校は15くらい
H高校は20以上、下でした。
自分的にはそんなことはあまり関係なかったのですが、
先生と親が、強く、私の偏差値に見合ったK女子高を推してきました。
K女子高は、進学率が高いということについては、
一応その時には大学に行きたい思いはあったので、
合致はしていたのですが、
そのほか、上に書いた自分の希望を満たしてくれる要件は、
ほぼない学校でした。
で、結局、自分は、周囲の声におされて、
偏差値で横に輪切りにされた選択として、
K女子高校に決めてしまいました。
K女子高は、合っている人もいるとは思うのですが、
悪いところだとも思いませんが、
私には合わなくて、今でもその選択を後悔するくらいです。
そしてそのK女子高で、私は、中学校まで続けていたバレー部に入りました。
そこの練習がまた厳しくて、体を壊し、人間関係も最悪で、
本当に生き地獄のような高校生活でしたが、
それでも不思議なことに、
私はK女子高を選んだことは後悔してるのですが、
バレー部を選んだことについては後悔していないのです。
そこは、「自分で選んだことだから」という思いがあるからです。
私にとって、「自分で選んだことだ」ということは、
こんなにも大きなことなんだと、
そのことを学んだ出来事でした。
それから、「自分で考えて、自分で決める」ということを
とても大事にして生きてきたように思います。
そして、子育ての中でも、それは繰り返し、子どもに伝えてきたことです。
そして今、このアストロラーベで掲げていること、
「自分軸」ということに、つながっています。
あの時に、自分が悩んで、そして間違ってしまった進路選択。
(間違ったからこそ、その後悔をバネに、今の自分があるのですが)
あの時に、自分が進路のことで悩んだこと、考えたこと、
選ぼうとしていたもの、それは間違っていなかったのだと、
長い長い時間を経て、この文章に出会い、
はっきりとわかりました。
もしできれば、私みたいに後悔をしない進路選択を、
今の学生さんたちにしてもらえたらいいなと願います。
諸事情により、25日実施予定の切る祈願を、明日26日の夜に変更します。
掲示板への投稿はいつでも可能です、切り離したい事や人、逃れたいこと、改善したい何かがある方は是非投稿してみてください。
毎週水曜あたりに更新してます、『強み』シリーズです。
今回は、木曜日になってしまいましたが。
『責任感』です。
特徴
・自分が引き受けたことに対して、最後までやり遂げなくてはならない、と感じる
・そのことの大小に関わらず、それが完了するまでやり遂げなくては、と
心理的に拘束される。
・人から頼られたり、任されたりした時、引き受けてしまうことが多い。
アイディア
・就職活動では、「責任感が強い」ということを強調しましょう。
プロジェクトの成否については、きちんと責任を負いたいと思っていることなどです。未完成の仕事や約束については、完了するのが当たり前だと感じていることなど伝えると良いかもしれません。
・今までよりも重い責任のある仕事を進んで引き受けてみましょう。責任を負うことで成長するだけではなく、非常にうまくそれに対処することができます。
・責任感のある人と一緒に働くと、あなたの才能が開花します。役割や担当分野を明確にしておけば、相手の領域を侵さず、お互いの責任の範囲もわかります
・仕事をまっとうするために自由が与えられた時、最も成果を上げる、ということを上司に伝えましょう。全て任せてもらって、最後のチェックだけで、ということです。必ずやり遂げることで信用を得るでしょう。
・頑張って断りましょう。断るのは難しいと感じるかもしれませんが、だからこそ、選ばなくてはなりません。自分にとって大きな意味を持つことだけ、より多くの責任を負うことを要求しましょう。
・全ての責任を自分が背負わないようにしましょう。他の人たちにも責任を持つ経験をさせてください。それにより、彼らも成長します
・それは自分がやらなくてはならない仕事でしょうか。依頼が多すぎて、結果的に質を落としてしまうこともあります。新しいものを引き受けるより、今抱えている責任と目標を優先しましょう。
・「規律性」とか「目標思考」の高い人とパートナーを組むと良いです。責任を抱え込みすぎず、仕事を順調に進めるのを手伝ってくれます。
・責任感のある人は、約束を「果たせた」ことを知るのが好きです。いかに効率的にその仕事が出来たか測れる指標やゴールを作りましょう
・自分に割り当てられた仕事の期待値も明確にしておきましょう、。そうすれば、結果の質に悩む必要がなくなり、約束したことだけに専念できます。期待値を明確にするのに、分析思考、戦略性、共感性の人達が助けになってくれるかもしれません。
私は、責任感は、まあ人並みかなと思うのですが、今、博史先生に訊いてみたら
「責任感、ある方ですよ。やる人がいないないなら、私がやるしかない、みたいな。
私、やります!的な責任感。」と言われました。
そうなんだ~!・・そうかも、と思いました。
この感じ、「指令性」に分類されてますけどね。
「指令性風味の責任感」とでもいいましょうか。
博史先生は、責任感、強いです。
自治会の会長をしていた時の働きっぷりを見て、凄い責任感の強い人だと感じました。
回覧板を使い、市民運動的なものを巻き起こし、
避難所運営の全責任を投げてくる市役所を相手に、一年間戦い抜きました。
詳しく聞きたい方がいれば、コメントくださいね。
ご要望があれば、改めて記事にいたします。
今までさんざん書いてきました、
「勉強ってなんのためにするのか」シリーズですが、
このたび、昨日、記事にした、
五味太郎さんの「じょうぶな頭とかしこい体になるために」という本の中に、
今まで私の中になかった考え方があったので、
ぜひ、ご紹介したいと思いました。
一部、引用させていただきます。
「ぼく 算数がきらいだ!」(7頁)より
学校での学習というものは、生活してゆくうえで必要だと思われることを、
前もって学んでおくということもありますが、それ以上に、
その人個人がどんな性質の人なのかを、自分自身で発見してゆくためのものです。
自分がどういう性質の人間なのかを、いろいろな学習をとおして見出してゆく、
そのために学校には多くの種類のカリキュラムが用意されています。
ですから、すべての学科において平均的に優秀である、というような人がいたら、
これはちょっと問題で、別な言い方をすれば、はっきりとした性質がない、
あるいは発見できていない、ということになります。
なるほど、なるほど~って、とっても自分としては腑に落ちました。
高校生の時、私の通知表には2~9まで全ての数字があって、
でも、ちょっとそれが気に入っていたんです。
すべてが4~6とかより、おもしろいよね、って。
あの感覚は、合っていたんだなと思いました。
そして、完全に文系型で、数学では0点をとっていた私が、
今、数学はきらいですが、かなり論理的な思考をすると言われたりします。
どこかが数学的な思考回路なんでしょうね。
人間って、必要に応じて、大人になっても、いろいろな部分が伸びていくものです。
面白いなって思います。
絵本作家の五味太郎さんってご存知でしょうか。
私が五味太郎さんを知ったのは、私が幼稚園時代だったと思います。
タイトルが思い出せないのですが、
鷲(コンドル?)が、肉を岩の陰にかくしたまではいいものの、
その場所を勘違いしてしまい、
「誰が取ったんだ!?」と、
いろいろな動物をうたがう話だったように覚えています。
結局最後に、自分の勘違いだったと、気づくのですが^^;
その時からの、五味太郎さんのファンです。
独特のシンプルな画風と、ちょっと毒の効いた感じ、というか
本質に迫る感じが大好きです。
子ども達が小さい時にも、よく五味太郎さんの本は借りてきてました。
たぶん、何十冊って読んだんじゃないかなあ。
子ども達も、たぶん好きだと思います。
よく、うちの子供の友達などには
「五味太郎を知らずに、子ども時代を終わっちゃいかん!」
などと言っています。
そんな五味太郎さんの本を、久しぶりに図書館で借りました。
「じょうぶな頭とかしこい体になるために」というタイトルです。
絵本というには字が多く、本というには絵が大きい、
片面が絵、片面が字、みたいな本です。
まあ、こんな感じの本です。
子どもの疑問や悩みや、希望に、五味太郎さんが真正面から答えていく本です。
で、いろいろと良かったんですが、あとがきが特に良かったので、
ご紹介します。
あとがき
とくに悪いことをしたわけでもないのにしかられる。
ちょっとおもしろそうなことをやろうとすると、とめられる。
それなりに自分ではやっているつもりなのに、がんばりなさいとか、
しっかりしなさいなどと言われる。
そして、本当に悩んでいることについては、相談にのってくれる人が見あたらない。
まったく子どもって気の毒です。ぼくも昔、だいぶ気の毒でした。
そして今、ぼくは大人をやっているわけですが、まわりの大人を見るにつけ、
ぼくたち大人が作り出している世の中を見るにつけ、
やっぱり子どもはあいかわらず、気の毒なんだろうなと思います。
そして、また、子どもを気の毒にさせておいてでも、
大人のほうはとりあえず幸せだというのなら話は、ま、わかりますが、
当の大人たちもそう幸せそうではありません。
やっぱり気の毒なのです。どうしてなんでしょうか。
これじゃ、子どもが気の毒をやっているかいがありません。
そして大人自身が気の毒な状態だから、子どもをしかったり、文句を言ったり、
指導にまわったり、むやみにはげましたり、勝手に愛しているふりをして、
なんとかごまかしているようにぼくには思えます。
なんで大人がそこまで気の毒な状態におちいってしまったのか、
理由はよくわかりませんが、その大人の気の毒が子どもの気の毒を生み出し、
子どもの気の毒が大人をもっと気の毒にする、そんな感じ。
いつまでたっても終わりそうもありません。
自分でやるしかありません。
あたりまえすぎる言い方ですが、自分で自分の気の毒を解決してゆくしかないのです。
それは大人も子どもも同じです。
自分で考え、自分で悩み、自分でしかり、自分をはげまし、
そして自分を可愛がってゆくしかないのです。
そのために、けっこうきつい問題でもなんとかこなせる「じょうぶな頭」と、
好きは好き、嫌いは嫌いとはっきりわかる「かしこい体」が必要なんだろうと思います。
気の毒な大人があみ出した、
かしこい頭とじょうぶな体になるための方法をまじめにやっていても、
さらに気の毒になるしかないのです。
それではいつまでたっても不安なのです。
できるかぎり自分の頭と体を信じて、生活してゆくしかないと思います。
それも信じられないで、人のためにどうのこうの、世の中のためにどうのこうのなどと
言っている場合じゃないと思います。
大人もしっかりしますから、子どももしっかりしてください。
この本は、少し気の毒な状態ですが、その気の毒さに気づいている、じょうぶな頭と
かしこい体をもった子どもたちの声がベースになって作られました。
そしてかつては少し気の毒でしたが、今はけっこう幸せな大人たちが、
いろいろと調べたり、考えたりして協力してくれました。
お礼を申上げます。 1991年1月31日 五味太郎
1991年って、結構、前ですけど。
もう30年以上経ってますけど。
未だにこれは解決されないというか、酷くなっている感じさえします。
私の小さな夢の一つとして、
こういうような本質的なおしゃべりをする会を、
子ども達とやりたいなっていうのがあります。
そういうことが、自分の頭でしっかり考えられる人を育てることが、
世の中が変わっていく元になるんじゃないかって、思っています。
そんな会をやるとしたら、参加したい方、ぜひコメント下さい。
お待ちしています^^☆